高梁市備中町布賀・長屋の町並 
備中町布賀・長屋
地図


備中町布賀の町並

  高梁市備中町布賀は岡山県西部、高梁川支流成羽川中流右岸に位置する。
江戸期は毛利氏支配を経て、慶長5年(1600)幕府領、元和3年(1617)松山藩領、同4年成羽藩領、寛永16年(1639)松山藩領、同18年幕府領、元禄7年(1694)から旗本水谷氏領となる。
村高は「備中至宝記」940石余、」「天保郷帳」942石余、「備中村鑑」851石余、「旧高旧領」855石余。水谷氏の陣屋(旧布賀小学校跡地)に置かれていた。
この地域は成羽川沿岸谷間の集落と、高原地帯の集落に二分されている。明治期までの陸上交通は高原を登り下りしながら集落を結ぶ道が中心であった。米や重い荷物は成羽川の水運が利用された。このため高原集落から谷集落を結ぶ道が開発され、年貢米などが成羽へ運ばれ、水運を利用して玉島へと送られた。これらの道はV字谷の谷壁を上下する道で、極めて急坂であった。
谷集落から高原集落に転勤になった教師が、その厳しさから辞職届を出したと云われ、後世これらの坂は辞職坂を称せられた。
幕末の弘化ー嘉永年間(1844〜54)高瀬舟による成羽川の河川交通の重要性が増したことにより、水谷氏の陣屋が高原上から河岸場のある成羽川沿岸の黒鳥に移転してきて、黒鳥が政治・経済の中心地として発展した。
明治24年の家数248・人数1,433、舟8とある。
今、黒鳥集落内はひっそりと静まり返っている。通過する車は成羽川の堤防上を通過して、集落内に入ることは無い。しかし、一歩集落内に入ると、造り酒屋さんも健在な古い町並が展開していた。
吹屋への道・東城への道などが通ることから、赤瓦・赤褐色の瓦・黒い瓦の入り混じる町並。白漆喰・ナマコ壁の家屋、平入・妻入りなどが入り混じった町並で、陣屋門も健在であった。
町並み指数 40
参考文献      
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年
  岡山県の地名  平凡社  下中直也  1988年

備中町長屋の町並

備中町長屋の町並

備中町長屋の町並

備中町長屋の町並

備中町長屋の町並

備中町長屋の町並

備中町長屋の町並

備中町長屋の町並

備中町布賀の町並

備中町布賀の旧陣屋門
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