勝央町勝間田の町並
勝間田
地図


勝間田の町並

  町名は勝田郡の中央に位置することに由来する。
津山から東へ三里(約12km)出雲街道の宿場町として発展した勝間田宿は、古代から開けた地である。縄文時代から弥生時代にかけての土器などが多く出土しているし、中世にかけては勝間田焼の産地として知られていた。
宇喜多氏・小早川氏の支配を経て、慶長8年(1603)から津山藩森領となり、元禄10年(1697)森氏の改易により幕府領となったまでは、近隣の宿場町と同じであるが、その後は複雑な変遷を経て明治を迎えている。
津山に入った森氏の出雲街道整備以前からこの地には出雲往来がとおり、出雲と上方の接点であった。そしてこの辺りの政治・経済の中心であった。
津山藩主になった森氏は、城下町形成に際し、この勝間田の商人を城下に多く移住させ、津山の勝間田町を作っていることからも、勝間田が繁栄していたことが伺える。
慶長9年(1604)から慶安年間(1648〜51)にかけて、出雲街道が改修され勝間田が美作七宿の一つになり、勝間田宿の下山本陣は津山藩主の、木村本陣は他の諸藩主(出雲の松平氏・広瀬の松平氏・勝山の三浦氏)や宮家・勅使の宿泊所になった。
宿場は滝川にかかる大橋から、県道67号線勝央・勝北線までの約600mぐらいである。美作の地区誌で文化2年(1815)刊行の「東作誌」によると文化年間の勝間田は家数72、人数243人になっている。
宿場の道路は幅が5m〜6m位で、石畳風に舗装されていて、滝川の水を引いた水路が道路の両側にあり、その水が町なか中央部にある小公園の中を流れ、公園内の池には大きな鯉が泳いでいる。
伝統的な商家の建物は宿の中央部に多く、どの家も間口の広い大きな商家の建物である。切り妻造り、中2階建て、かっては虫籠窓であっただろうが今は窓ガラスになっている。平入り、桟瓦葺き又は本瓦葺き、ナマコ壁、格子窓で一部では袖壁、煙出しも備わっていた。
宿中央部には勝央郷土美術館がある。この建物は明治45年勝田郡役所として建てられたもので、もと木村本陣の敷地の一部だった。明治の木造洋風建築で、濃い緑色のトンガリ帽子の形をした塔は町のシンボルでもある。重要な文化遺産であると共に、この地に明治期には郡役所や警察が置かれ行政の中心地でもあった証しでもある。                             
町並指数  40
参考文献
  岡山町並み紀行  山陽新聞社  富阪 晃  1999年
  中国地方のまち並み  中国新聞社  中国地方まち並み研究会  1999年
  岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等学校教育研究会  1991年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会
  http://www.town.ohara.okayama.jp/gyosei/jyoho/e-koho/01.09/e-koho01.09html

勝央町郷土美術館
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