新庄村の町並み  
新庄村
地図


旧本陣佐藤家付近の町並み 

  岡山県の最北西部の鳥取県境にある新庄村は、鳥取県の大山の南に位置する。旧新庄宿は出雲街道に沿った宿場町として、また、この地方の物資である「たたら鉄と木材」の集散地として栄えてきた。
 そもそも出雲(島根県)と伯耆(鳥取県)からは、根雨宿、板井原宿を過ぎ四十曲峠を越して新庄宿に着くのだが、東の箱根、西の四十曲峠といわれた程、出雲街道一番の難所であった。
関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)に、東海道に伝馬制が設められ、明暦元年(1655)には、諸街道に宿駅人馬を定めていて、新庄宿もこの頃から整備されたのであろう。出雲街道は新庄宿に続いて、美甘宿、高田宿(勝山宿)、久世宿と続き津山となるが、津山は城下町であり宿場とはいわず、坪井宿、勝間田宿、土居宿を数え美作の宿場は七ッといわれた。
新庄宿の本陣は寛文期(1661〜73)に出雲松江藩の援助でおかれ、御茶屋ともいった。利用したのは松江藩と支藩の広瀬藩で、元録2年(1689)の文章によると、新庄宿の家並みは47軒であった。
本陣の佐藤家の文章によると、松平侯の援助引き立てによって本陣を営造したとある。新庄駅成立当時は5〜6軒の部落であった。
江戸時代は道路の中央を水路が貫流し、両市街の裏に同じく水路を通じていることなど、自然発生的の市街でなく都市計画されたのだろう。本陣(お茶屋)の位置は初めは本町にあったが、寛政3年(1791)の大火によって全焼し、中町の現在地に本陣が移築されたと伝えている。
本陣は一軒で佐藤三郎左衛門が務め本陣の他に、馬場屋(木代家)、小松屋(進家)、本坂屋(池田氏)等が脇本陣に宛てられたらしいが、はっきりとしたことは判らない。脇本陣の馬場屋(木代家)は町にあって最も古くから庄屋を務めた家である。一般の家では商業運送業その他を営み、多くは裏側で牛を飼育して半農の生活であったのも定期的大名の通過の外は閑散な町であったから。
本陣佐藤氏の屋敷や、その苗字帯刀が領主からでなく、始終松江侯からの令によるものであったのは、新庄宿の意義を物語っている。嘉永年間(1848〜54)の常備人馬は15人・8疋であった。また、その頃の新庄宿の戸数は100軒ほどになっていて、旅篭も9軒、鉄山稼4軒を数えた。そして今も新庄村に宿場町として賑わった古い町並みが残っている。
宿の中ほどにある脇本陣は馬場屋(木代家)と称し、江戸時代の末期の建物。切り妻造りの中二階建てで平入り、二階には親子格子の出格子と一部ナマコ壁があり、一階は真壁造り、二階は大壁造りで、一階二階とも腰はささらに下見板張り、桟瓦の赤い石州瓦葺きで、6間取りの大きい建物であった。
老樹の桜並木は凱旋桜といって、明治39年に日露戦争戦勝記念の植樹である。新庄村で有名なものに鉄山がある。江戸時代、中国山地で造られた鉄、「たたら製鉄」は全国生産の7割を占めたという。古くは県内広く生産されたが、江戸時代では木炭資源が豊かな美作北部や備中北部に限られていた。
町並みの特徴に赤い石州瓦葺がある。渋い赤屋根の続く町並みも伝統的な家屋によって映えていた。伝統的な家屋は切り妻造り、中二階建か二階たてで平入り、赤か黒の石州瓦葺、真壁造り、中には二階の真壁の下部をナマコ壁にしていることもあり、茅葺の家もあった。
町並み指数 50
参考文献    
  岡山町並み紀行  山陽新聞社  富坂 晃  1999年
  岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等学校教育研究会  1991年
  新庄村史/新庄村  新庄村史編纂委員会
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年

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脇本陣木代家

町並み

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本陣佐藤家
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