鹿野町鹿野の町並み
鍛冶町・下町・上町・殿町・大工町・山根町
地図


下町の町並

鹿野町は鳥取県の中央部東寄り、鳥取市の西側に位置する。
この地は山陰道の交通の要衝に位置し、因幡・伯耆支配をめざす諸軍勢により、たびたび争奪の中心とされた。天正元年(1573)因伯を平定した毛利氏の領有となったが、その後尼子勢に攻められ、天正9年(1581)には尼子氏の領地となっている。
そして、その年の10月には豊臣秀吉が入城し、秀吉により尼子の家臣 亀井茲矩が1万3500石の鹿野城主をつとめた。茲矩は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川家康方に属したので、その戦功により2万4500石加増されて、3万8000石を領有し、城郭・城下とも整備して近世城下町へと大きく成長した。
慶長17年(1612)遺領を継いだ政矩は5000石を加増され、4万3000石を領有したが、元和3年(1617)政矩は石州津和野に転封され、鹿野の地は鳥取藩領に編入されたが、鹿野城は元和元年(1615)の一国一城令により取り壊された。
元和3年(1617)因幡・伯耆には播磨姫路から外様大名の池田光政が゙入り、老臣日置豊前守が鹿野の地を領し、山麓に屋敷を構えた。その後光政が寛永9年(1632)備前岡山に転封され、代って岡山から分家の池田光仲が鳥取城に入り因幡・伯耆両国の統治を引き継ぎ、明治維新による廃藩置県まで、鳥取藩政を展開した。
貞享2年(1685)鳥取藩主池田光仲の二男池田仲澄が、新田2万5000石を分けてもらって鳥取城下に居所を持ったまま、鳥取藩の支藩として鳥取新田藩(東館家)を立藩しこの地を治めた。そして明治元年鹿野(鹿奴)に陣屋を置いたので、鹿野(鹿奴)藩と改めた。
前記亀井茲矩のとき、本丸・二の丸・三の丸・西の丸を築き、外堀を巡らす大改修が行われて、このとき同時に鹿野城下も近世城下町へと大きく成長したのは前記の通りです。城を中心に侍屋敷を設け、その周辺に町人町を配置するという城下町が出来あがったのはこのときと思われる。
現在もかっての城下町地域には、殿町・鍛冶町・大工町・紺屋町・御茶苑・堀端・鉄砲町・的場などの小字名が残っていて、中世末期から江戸初期の鹿野城下の様子を思い浮かべることができる。
しかし、元和元年(1615)の一国一城令により城が取り壊されると、徐々に城下町が寂れて行ったといわれ、城下町から農民・商人が混住する在郷町の観を呈し、産物集散地であると共に、商業の中心として栄えた。
町並を歩くと、大工町・下町・上町などの旧街道に沿った地域には、切り妻造り中二階建て、平入りの商家の建物が軒を連ねている。道路に沿っては石垣水路が清い水を勢いよく流し、その水路に架かる石橋も風情を感ずる。この水路の一部に、石に穴の開いたものがあり、江戸初期の城下町の繁栄時の牛つなぎ石も残っていた。
江戸時代には志加奴村と呼ばれ、東西の2ヵ村に分かれ、村役人もそれぞれに置かれていた。村高は「元禄郷村帳」では1425石余り、「天保郷帳」では1386石余りで、「元治郷村帳」では東志加奴村753石余り、西志加奴村746石余りであった。
戸数は「因幡志」では、東志加奴村130・西志加奴村220、「文久3年組合表」では東志加奴村158・西志加奴村291であった。
東志加奴村の地域には上町・紺屋町・小屋根町・竪町・殿町・新町があり、西志加奴村の地域には、下町・鍛冶町・山根町・大工町があった。
当地は鹿野往来(伯耆中道)が通り、近世初頭から宿駅としても栄え、制札場や牢舎も置かれ、宝暦8年(1758)には目安箱、文久3年(1863)には番所も設置され、牛市も開催され在郷町として賑わいを見せていた。
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参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年
  鳥取県の地名  平凡社  1992年
  中国地方のまち並み  中国新聞社  中国地方まち並み研究会  平成11年


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