作東町土居の町並
土居
地図


土居宿の町並

播磨から美作に入るには出雲街道を通っていた。その出雲街道の宿場の一つに土居宿がある。
出雲街道は、関ヶ原の戦い後、津山に入った森蘭丸の弟森忠政によって整備された。それ以前は今の中国自動車道の通る杉坂峠を越えていたのであるが、森忠政による出雲街道は少し南の万能峠越えに変えられた。それとともに宿駅の整備が進み、土居宿は美作七宿の一つとして、また、国境の宿場として重要な宿場となり、石見・伯耆などの諸大名の参勤交代の道として利用され、本陣や脇本陣が置かれた。
本陣ははじめ妹尾家が勤めたが後安東家が勤めた。脇本陣は亀井屋・和田屋などであり、この土居宿は江戸中期には大変繁栄した。土居村の戸数は元禄年間(1688〜1704)には113戸であったが、文化12年(1815)には216戸に増加し、かなりの繁栄だったようだ。
土居は戦国時代、宇喜多氏・小早川氏の支配を経て、慶長8年(1603)津山藩領、元禄10年(1697)幕府領、延享2年(1745)播磨三日月藩領預かり、寛政6年(1794)播磨龍野藩領となり明治元年から鶴田藩領となっている。
今も宿場らしい雰囲気を残しているが、目立った伝統的な商家や旅篭の建物は残っていない。かっての宿場の両端には東惣門跡と西惣門跡がある。このように宿場の両端に惣門を備えていたのは、全国的にもまれな事例と云われている。播磨国との国境の宿場だったのでこの惣門の間の宿場の長さは約700mである。
現在、西惣門が復元されていて、こんなに大きな門が宿場の両端にあったのかと驚く。朝夕門番によって開閉され、夜間は出入できなかった。
現在の土居は国道179号線とJR姫新線に挟まれ、東西の一筋街道に沿った集落を形成していて、
宿の西端にJR土居駅がある。本陣跡・脇本陣跡や高札場跡は表示されているが、遺構は殆ど残っておらない。
町並指数  30
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会
  岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等学校教育研究会  1991年
  中国地方のまち並み  中国新聞社  中国地方まち並み研究会  1999年
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