境港市の境港は鳥取県の北西端、日野川が運んだ砂礫の堆積物である大砂州の弓ヶ浜の先端に位置する平坦地である。島根半島が冬の季節風をさえぎる古くからの天然の良港で、江戸期には西廻り海運の要港として栄え、明治期には重要港湾に指定され、日本海沿岸の代表的な商港・漁港として発展した。 耕地には恵まれなかったが漁業は盛んであった。元禄14年(1701)米の量産と綿作りを目的に米川の開削が始められ、宝暦9年(1759)に灌漑用水路の米川が完成した。これによって米作は勿論、綿の栽培と綿取引が盛んとなった。 境港には寛永20年(1643)異国船監視のため浜の目番所が置かれ、寛文13年(1673)には諸国の荷物積み揚げが許可され、松江・安来・米子などへの門戸として重視されてきた。享保元年(1716)には制札場が設けられた。その頃から諸国の廻船がよく寄港するようになった。特に丹後・若狭方面からの廻船で賑わった。 宝暦13年(1763)には藩内で最初の諸国廻船相手の飯盛置屋の設置が許可されるほど港町として賑わっていた。 「伯耆志」では家数330・人数2,023。「文久3年組合帳」では458戸とある。 天保6年(1835)日野郡産鉄の津出し港に指定されて鉄山融通会所が設置され、綿と鉄の移出港として飛躍的に発展した。 近世の基幹産業であった綿作は明治29年の外国綿花輸入税の廃止により大打撃を受けたが、綿作に代わり養蚕業が盛んになった。港も明治期に入り、山陰第一の商港として発展し、郵船汽船三菱会社・大阪商船・日本郵船などが定期航路を開いて寄港するようになった。また、北海道・北陸・下関・大阪間の遠隔地商業が活発になり、境港は商品中継地としても発展した。昭和に入ってからは、サバ・イワシ・アジなどの漁獲量が飛躍的に増大し、山陰最大の漁港として活況を呈していた。 明治4年の市中商売根帳には47種・838人の諸職従事者が書きあげられていて、住んでいる町名は栄町・朝日町・入船町・花町・松ヶ枝町・末広町・相生町の7町が記されている。 今、古い町並みと云えるほどの町並みは残っておらないが、伝統的な様式の家屋が境水道に面した境港に沿って展開している。連続して残ってないのが残念だが、あちらこちらに点在していた。赤褐色瓦と黒い瓦の入り混じった町並みは雨の中で静まり還っていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989 岡山県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1988年 鳥取県の歴史散歩 山川出版社 鳥取県歴史散歩研究会 1994年 |
栄町の町並み |
栄町の町並み |
栄町の町並み |
朝日町の町並み |
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東本町の町並み |
相生町の町並み |
相生町の町並み |