岡山市西大寺の町並み 
西大寺中1丁目・西大寺中3丁目・西大寺東3丁目
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西大寺東三丁目(旧河本町)の町並
 西大寺を有名にしているのは、天下の奇祭といわれる会陽(えよう)(はだか祭り)で、裸体の群れが宝木を奪い合う勇壮な祭りである。
鎌倉時代には既に西大寺境内で市が開かれており、当時、酒屋・餅屋・魚屋などがあったようだ。
江戸時代の西大寺村は宇喜田氏・小早川氏の支配を経て、慶長8年から岡山藩領のまま明治を迎えている。享保6年(1721)に編集された「備陽記」によると家数271・人数1,536であり、文久年間(1861〜63)では家数488・人数2,082となっている。
吉井川の川湊に臨むこの地は、西大寺観音院の門前町として発展し、室町時代末期には小都市が形成されていたようだ。江戸期も吉井川の高瀬船による船運により備南で生産される米を中心に農産物が集まり、瀬戸内海航路の船積貨物も集まり、物資集散地として発展、岡山藩も西大寺村を在町に指定して発展を奨励した。
その結果、米問屋や回漕問屋・綿実問屋・菜種問屋などが台頭し、商家が軒を連ねる光景が出現した。「吉備温故秘録」(吉備群書集成第6輯 S6)には「当村は郡中の都会にて商家多く、町並にて南方の金岡村まで町続きなり」と記され、文政2年(1819)の観音院石門の寄進者には多くの商人が名を連ねている。
明治中期まで発展を続けた町だが、明治24年の山陽鉄道の開通により、西大寺川湊の機能は低下し、門前町も衰退の道を辿った。
今、古い町並は主に、西大寺中3丁目の「五福通り」と西大寺東3丁目の旧河本町に残っている。
どちらの町並も江戸時代末期から明治にかけて建てられた、漆喰塗り込め・ナマコ壁の商家の建物で構成されていて、川湊全盛期の町並がそのまま残ったようであった。その中で五福通りの所々に、洋風の建物が建てられていて、意外性というか、新鮮味のある町並であった。
伝統的な家屋の一般的なものは、切り妻造り中2階建て又は2階建て、平入り、漆喰塗り込め、2階の下部分はナマコ壁で、本瓦葺き又は桟瓦葺きで、落ち着いてしっとりした町並の様相である。
町並み指数 50
 参考文献      
   岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等学校教育研究会  1991年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年
   岡山県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1988年

西大寺中3丁目五福通りの町並

西大寺中3丁目五福通りの町並

西大寺中3丁目五福通りの町並

西大寺中3丁目五福通りの町並

西大寺中3丁目の町並

西大寺東三丁目(旧河本町)の町並

西大寺東三丁目(旧河本町)の町並

西大寺東三丁目(旧河本町)の町並
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