落合は旭川の高瀬舟による舟運とともに大山道(大山往来)沿いの交通の要衝であった。大山道は山陽道から備中足守を北に進み、信仰の山である伯耆大山に向かう道であり、中国一の大牛馬市によって栄えた山である。 鹿田は落合から備中高梁に向かう備中往来(落合往来)の通る交通の要所であり、備中から美作に入った最初の宿場町であった。 宇喜多氏、小早川氏の支配を経て、慶長8年(1603)津山藩領、元禄10年(1697)幕府領、元禄14年(1701)に甲斐甲府藩領になり、宝永6年(1709)幕府領になったときに代官所が置かれ、明和元年(1764)からは勝山藩領となる。 「作陽誌」(元禄4年成立の地誌)では、家数128・人数815で宿駅が置かれている。 今国道313号線は旧備中往来を外れて通っているため、町並みは比較的保存された状態で残っている。切り妻造りと入り母屋造り、中2階建てと2階建てが入り混じった町並みで、道幅は比較的広く、枡形は見られなかった。 この地方の特徴ある形式は2階部分の下部はナマコ壁になっていて、特徴ある景観を呈していた。 岡山県の歴史散歩 山川出版社 岡山県高等学校教育研究会 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 |
鹿田の町並み |
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