長船町福岡は田園地帯の一角に突如出現する、周囲の景観とは異質な不思議な町である。中世の町 福岡なのである。 南北朝時代の応安4年・建徳2年(1371)九州探題として赴任した今川貞世は道中記「道ゆきぶり」で福岡の印象を「家ども軒をならべて、民のかまどにぎはひつつ、まことに名にしおひたり」と記している。 この福岡は鎌倉時代から福岡の市として栄ていたが、南北朝時代には山陽道が通過しますます繁栄した。 観応元年・正平5年(1350)足利尊氏は、西国にいるわが子直冬離反の鎮定のため、西下の途中2000の軍勢を、この地に40日も駐留させている。このような大軍が宿泊できるほど町の規模は大きかったようである。 また、吉井川上流地域からの砂鉄と薪炭の入手が容易なこともあり、平安時代末から刀鍛冶が起こり、多くの名工を生んだ。当時の名工 実成や信房もこの地の人だった。 嘉吉元年(1441)備前守護となった山名教之が吉井川の中州に福岡城を構え、この地が政治・経済の中心地となった。「備前軍記」によると、城域には民家1000軒を取り込んでいたようだから、福岡は相当な規模の町だった。戦国時代には争乱のたびに激しい攻防戦の舞台となった。 戦国末期の宇喜多直家による岡山城下町の建築に伴って、当地の豪商達の多くが岡山へ移り、商家が少なくなり幾分衰退をみせた。加えて度重なる吉井川の大洪水によって、壊滅的打撃を受けた。 大永年間(1521〜28)の大洪水で吉井川は流路を変え、更に天正19年(1591)の洪水でも福岡の町は水没した。それまでは福岡は吉井川の右岸に位置していたが、洪水後は今の様に左岸になってしまった。 このことは福岡の氏神様の石津神社が吉井川を隔てた岡山市吉井にあることからも理解できる。当時の福岡の町の規模は正確には判明しないが、1000軒というから、今の福岡の比でない大きさだったと思われる。 つまり福岡から吉井川河川敷を含む対岸の一日市・八日市にかけて町があったようで、現在の福岡は当時の福岡の一部にすぎないのである。 町並は東小路・西小路・上小路・下小路・横小路・後小路・市場小路などあり、東小路・西小路・市場小路などの道幅は8mもあり小路とは云えない程である。 この町並みは吉井川の流路変更後の江戸初期に計画的に造られたもののようだが、誰がこのような町並を造ったのかは謎のままで、自然発生的にできあがった町並みでないことは確かである。 商人の多くが岡山へ移り福岡は衰退したが、寛永19年(1642)には岡山藩が設定した13の在町の一つに指定され、居商や酒造業が営まれ、地方商業の中心には変わりなかった。 享保6年(1721)の「備陽記」では家数266軒・人数1467人。文化年間(1804〜18)の「岡山藩領手鑑」では家数248軒・人数860人となっている。 現在、福岡の町並の民家の建物は、殆どが入り母屋造りの中2階建ての重厚な建物で、ナマコ壁と本瓦葺きである。虫籠窓・格子・出格子が備わっていた。古い商家の建物といえば多くは切り妻造りであるが、ここ福岡では入り母屋造りである。建物も明治に入って建てられたのが多いようだが、「福岡の市」の伝統がこのようなところに表われているのだろう。 岡山県の歴史散歩 山川出版社 岡山県高等学校教育研究会 1991年 岡山町並み紀行 山陽新聞社 富阪 晃 1999 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989 岡山県の地名 平凡社 下中直也 1988年 |