大原町は岡山県最西部兵庫県との県境に位置し、因幡街道が僅か13kmに亘ってかすめている。この間に三つの宿があり、大原には二つあった。 本陣と脇本陣が当時のまま残る「古町」には、今でも街道と宿場の風情が色濃く残っている。室町時代から戦国時代にかけて、播磨・美作・因幡三カ国の接点で要衝のこの地は、たびたび戦乱の舞台となった。 戦国時代、この地を支配していた宇喜多秀家支配化の宇野氏は尼子方の攻撃に苦しみながらもこの地を保ち続けた。宇野氏は山王山城に拠っていたが、このころには城の麓の小原(現在の古町)に町ができていたと思われる。宇野家貞の跡を継いだ新免貞重(家貞のおい)は、明応年間(1492〜1501)に山王山城から竹山城に移り、山麓に城下町をつくった。それを「下町」といい、小原を「古町」と呼ぶようになった。 徳川時代に入り、宇喜多氏から小早川氏の支配を経て、慶長8年(1603)津山森藩領となり、元禄10年幕府領、延享4年(1747)からは常陸国土浦藩領になる。 因幡街道は参勤交代の道として整備されていった。茶屋や休憩施設で始まり、やがて本陣・脇本陣が整っていく。因幡街道の美作内ルートには、南から辻堂(中町)、小原(古町)、坂根の三つの宿が設けられた。辻堂・小原間はわずか900mしかない。本陣・脇本陣は小原だけにあった。近接する小原と辻堂は、両者が一体となって宿の機能を果たしていたようだ。 小原宿内の因幡街道は幅も広く見通しがよい。約600mの町筋を見通すことができる。殆どの宿場は遠見遮断の街道にしていて、枡形などを設けているが、ここ小原宿では一直線で見通せるのも珍しい。 今も本陣・脇本陣など白壁と格子の商家が軒を連ね、当時の宿場の姿を今に残している。 鳥取藩池田氏の本陣であった有元家は木羽葺きの二脚の御成門、数奇屋造りの御殿、回遊式の庭園など、当時の風格ある本陣の遺構をよく残している。有元家が本陣になったのは宝暦11年(1761)だといわれる。天明年間(1781〜89)に火災に遭って、その後寛政年間(1789〜1801)に再建されたもの。 脇本陣湧元家も火事で焼けて、文政年間(1818〜30)に再建された規模の大きな町家である。小原宿で唯一長屋門をもっている。主屋は切り妻造り平入り、中2階建て、式台つきの玄関、虫籠窓、煙だし、ナマコ壁、格子のどをもち、屋根は石州瓦葺きである。 この町の商家の建て方の代表として、田中家の家の説明が案内板で表示されていた。ただし明治中期の建築だから、中二階でなく二階建てになっていて、袖壁なども装飾的な要素が多い。この田中家の建物は、明治18年に主屋と酒蔵を同時に建築したもので、切妻造り二階建て、平入り、式台付きの玄関を備え、煙りだしを付けている。二階の半分に虫籠窓、ナマコ壁、もう半分に格子窓があり、装飾された袖壁も備えられていた。この袖壁のことを小原では「火返し」といい、もともと火の延焼を防ぐための袖壁であったが、明治期に入り意匠を凝らし装飾の要素が多くなった。 町並は両側の水路に清らかな水が勢いよく流れ、しっとりとした雰囲気を醸し出している。町並保存の意識が徹底していて、酒屋や呉服店、美容院までもが町並みに合わせた建物になっていて、看板も控えめにされていたのも、町並み保存運動の現れであろう。 岡山町並み紀行 山陽新聞社 山陽新聞出版局 1999年 岡山県の歴史散歩 山川出版社 岡山県高等学校教育研究会 1991年 山陽・山陰小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1999年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 |
大原古町の町並み |
古町の商家 |
大原古町の町並み | 元本陣有元家 |
元脇本陣湧元家の長屋門 | 大原古町の町並み |