撫川城は泥沼の地に築かれた沼城で、今も水郷の中に城跡が浮かんでいる。 この城は永禄2年(1559)に備中の有力者三村元親が、備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したと云われている。その後宇喜多氏の支配下をなり、慶長5年(1600)には旧宇喜多氏家臣戸川逵安が領した。戸川氏は4代目(安風)で断絶したが、撫川領分を分家したその弟達富が継ぎ、本丸・三の丸に知行所を設け陣屋を2分した。これが撫川城跡といわている。二の丸を庭瀬陣屋とした。 断絶した本家の庭瀬陣屋は一時廃藩となっていたが、天和3年(1682)久世重之が入り、元禄6年(1693)には松平信通が、元禄12年(1699)には板倉氏が入り以後廃藩まで11代170年にわたってこの地に留まった。 江戸時代の庭瀬は中田村と三田村に分かれていて、中田村は享保6年(1672)の「備陽記」では279石余、家数19・人数129であり、三田村は「備中村鑑」(1861〜63)では95石余である。 撫川村の村域は広かったようで、日畑村(現倉敷市)・下撫川村・中撫川村・芝村・惣爪村・宮内村を含む地域であった。 庭瀬・撫川付近は江戸時代の内海航路の遡行上限だったようで、幕末に編集された「備中誌」によると「慶長・正保の頃は入海にて、船入四五十間有て弐百石位の船は入しとぞ」と記載されている。 今でも沼地でこそなくなったが、水路やクリークが町中を巡っていて、当時の景観を忍ばせている。古い伝統的な建物は街道筋の庭瀬と撫川の境目辺りに多く残っている。 切り妻造り平入り、中2階建て、漆喰塗り込めの虫籠窓、中2階の下部分はナマコ壁、本瓦葺き又は桟瓦葺の伝統的な様式の民家が点在する。 脇道は屈曲した狭い道が多く、城下町当時の町並そのままのようであった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989 岡山県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1988年 |
岡山市庭瀬の町並 |
岡山市庭瀬の町並 |
岡山市撫川の町並 |
岡山市撫川の町並 |
岡山市撫川の町並 |
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