岡山市北区吉備津の町並 
吉備津
地図  地図


吉備津(板倉宿)の町並
  岡山市北区吉備津は 岡山市街から西北西に約8km、足守川の左岸に位置する。
集落は旧板倉村と旧宮内村に分かれている。板倉村・宮内村は共に毛利氏の支配を経て、慶長5年(1600)庭瀬藩領、延宝7年(1679)幕府領、のち所領変遷を経て、元禄12年(1699)からは再び庭瀬藩領となり幕末を向かえる。
村高では、板倉村は「備中至宝記」「天保郷帳」「備中村鑑」「旧高旧領」ともに346石余。宮内村は「備中至宝記」1,589石余り、「天保郷帳」1,752石余、「備中村鑑」1,592石余、「旧高旧領」では庭瀬藩領1,592石余・吉備津神社領160石となっている。

板倉村内に山陽道が通り、江戸期には西国街道板倉宿と呼ばれていた。天保9年(1838)板倉村の家数188・人数727。幕末の板倉宿略絵図によると宿の長さは8町9間半、街道両側に並ぶ家数190、宿のほぼ中央に土橋の板倉橋があり、「中国行程記」には橋のたもとに高札場を記している。文化3年(1806)の旅宿軒数書上によると、本陣1軒・脇本陣1軒・宿になれる家は70軒。宿内総家数を252と記し、うち板倉184・宮内68とあるように、宿は宮内まで広がっていた。

宮内村は吉備津神社の門前集落で、嘉永4年(1851)頃には社家60軒余り・百姓200軒余であったという。百姓は参拝人の宿あるいは酒飯などを商い、春秋2度の同社の祭礼中に市を立てて生活していた。市が始まったのは不詳であるが「備中誌」には元和年間(1615〜24)とする。遊郭も同じころに始まったと思われるが、天和2年(1682)の井原西鶴「好色一代男」には安芸の宮島・讃岐金毘羅・備中宮内と同列に扱われ、天保11年(1840)版の「諸国遊所番付」には前頭として京都先斗町などと肩を並べるなど、遊里として天下に知られていた。天保9年(1838)宮内村の庭瀬藩領分として家数203・人数761、社領分として社家55軒が揚げられている。

さて、吉備津の旧板倉宿だったところを歩くと、旧山陽道沿いの両側に僅かながら古い伝統的な家屋が点在する。 ナマコ壁や本瓦葺きを残した家屋も散見できるが、古い家屋の連続性は無く、古い町並としてはあまり期待できない。
次いで吉備津神社近くの旧宮内集落は、集落のほゞ中心に万治3年(1660)銘の摂社本宮社の鳥居があり、その周辺に近世末期の茶屋の面影を留める2階建て格子造の建物が残っている。同じ町内の板倉宿の建物とは様相が大きく異なる。やはり山陽道では安芸の宮島と肩を並べる歓楽街であった名残だろう。
町並み指数 30
参考文献      
  岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等t学校教育研究会  1991年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年
  岡山県の地名  平凡社   下中直也   1988年

吉備津(板倉宿)の町並

吉備津(板倉宿)の町並

吉備津(板倉宿)の町並

吉備津(板倉宿)の町並

吉備津神社前の町並

吉備津神社前の町並

吉備津神社前の町並

吉備津神社前の町並
古い町並へ戻る