御津町金川の町並み  
金川
地図


金川の「かながわ酒蔵」
 金川は江戸時代、岡山と津山を結ぶ津山往来の陣屋町であり、往来の要衝であった。
金川城は臥龍山頂(220m)に築かれた中世の山城で、備前・備中・美作の山城の中でも最大級の規模を持っていた。築城については諸説がありハッキリしないが、文明12年(1480)松田元成が金川に移って城に入っているから、城はそれ以前に築かれていて、松田元成が既存の城郭を拡張・整備したのであろう。
松田氏はその後、金川に五代88年にわたって在住したが、永禄11年(1568)に宇喜多直家に攻められ討死、松田氏は滅亡した。そして宇喜多氏は関ヶ原の戦いで西軍に属して滅亡。小早川氏の支配となった。慶長8年(1603)からは岡山藩領となる。
松田氏時代にも城下町の整備はされていたものと思われるが、本格的に城下が整備されたのは江戸時代に入ってからのようだ。
金川陣屋は岡山藩家老日置氏の陣屋で、三代日置忠俊は平素は岡山に居住し金川には御茶屋(陣屋)を設け、家臣を置いて知行地の支配に当らせた。
御茶屋は金川城が元和元年(1615)の一国一城令により廃城となったため、御城山(臥龍山)東麓の旭川右岸に高い石垣を築いて設けられた。
元禄10年(1697)の金川古図によると、御茶屋の南側には侍屋敷があり、この侍屋敷と西の横町との間には堀と土手によって隔てられ町口柵門一ヶ所が設けられていた。
宇甘川を渡った津山往来は真っ直ぐ北に6〜70m進み、柵門前の広場で左折して西進し下田村に向かう。町並は津山往来に沿って続き、その町並の北西側に西侍屋敷がある。
津山往来が西折れした広場辺りから西に進む往来に沿った辺りが、町の中心であり名主や豪商の店もこの辺りに集中していた。
当時の様子を伝える遺構は僅かに残っている程度で、期待して訪ねた町並の古い伝統的な家屋も数える程だった。
陣屋南側の侍屋敷でも、100石以上を知行取りが20人以上屋敷を構えていた所だが、今は長屋門が一つあった位で、それらしい雰囲気の家は殆どなかった。柵門辺りのかっての町の中心地では、旧武藤酒造の江戸時代後期に建てられた建物を、御津町が譲り受けて整備し「かながわ酒蔵」として公開されている。他に伝統的で重厚な建物も数少ないが点在するも、町並としては今ひとつであった。
御茶屋(陣屋)跡には御津町役場が建ち、裏手の石垣が陣屋当時の石垣と云われている。
町並み指数 30
参考文献    
  岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等学校教育研究会  1991年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年
  岡山町並み紀行  山陽新聞社  富阪 晃  1999年

金川の町並み

金川の町並み

金川の町並み

金川の町並み

金川の町並み

金川の町並み
古い町並へ戻る