日南町多里は中国山地の背骨部、岡山県・広島県・島根県の県境に位置し、そして属している鳥取県の西南端に位置する。冬季には100日間も雪に閉ざされることのある地域であり、旧日野往還最奥の宿場町であった。 この地には古墳が多く見つかっており、この地が早くから開発されていたと思われる。でも農耕文化が発展しそうもない山中にあって、古墳を築造するほどの豪族がいたのかと疑問に思うが、古代の炉製鉄が豪族を生み出していたのかもしれない。 日野町と同様、伊勢亀山から転封となった関一政の支配から、元和3年(1617)池田光政が鳥取藩主となり、その後寛永9年(1632)池田光仲と国替となり、多里はそのまま鳥取藩領で明治を迎える。 日野川沿いに日野往来が通り、その上流部の多里宿(元禄14年に村を宿と改称)は出雲・備後・備中三国との交通の要衝に位置し、貞享年中(1684〜88)から山奉行所も設置されていた。 日野街道の宿駅であるが、慶安年間から万治年間(1648〜61)の間に宿駅として指定されたようだ。 家数・人数は「伯耆志」では87・404。「文久3年組合帳」では92戸とあり、明治24年の家数112・人数492とある。 在郷町としても栄え、定期市も開かれ年2回の牛市も立った。産物は製鉄以外には石灰であった。 「鉄穴流し」で採集した花崗岩の砂鉄を含んだ風化土スコップ一杯で、耳かき一杯の砂鉄が採れると採算が合ったと云われた。しかし、砂が川底に大量に溜まり、天上川や水田に砂が入るし、木炭製造のため多量の木材伐採が行われるので、洪水が頻繁に起こり、下流域の農民との間で紛争が絶えなかった。 今、古い町並みは旧日野街道に沿って、往年の宿場の名残を留めている。国道183号線が旧街道の東側にバイパスとして通ったため町並みはそのまま残った。 赤褐色の瓦屋根が黒い瓦屋根の中に少し混じる程度であるが、平入り妻入り、2階建て・中2階建て・平屋建ての家屋が入り混じった町並みで、特別豪邸と思われる家屋もなかったが、しっとりと落ち着いた町並みを形成していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57 鳥取県の地名 平凡社 1992年 |
多里の町並み |
多里の町並み |
多里の町並み |
多里の町並み |
多里の町並み |
多里の町並み |
多里の町並み |
多里の町並み |