新見は岡山県の北西部に位置し、古来から山陽と山陰を結ぶ交通の要衝であった。 新見の町は中世から三日市庭の市場集落から起こり、商業地として栄えていた。 江戸時代になり、寛永19年(1642)松山藩主となった水谷氏は新見を松山に次いで経済都市にするため、慶安3年(1650)松山から今市への高瀬舟を通すため護岸工事等を行い復活させ、新見の町造りに着手し戎町が造られた。高梁川沿いの三日市は川湊集落・市場集落として発展し、形成された町場は新見町とよばれていた(三日市市場の位置は、高瀬川氾濫による河道変更等により特定出来ていない)。 元禄10年(1697)に新見藩が立藩され、藩主関長治は館(陣屋)を諏訪山(現城山公園)に新築した。その南に家中の屋敷地を定め、新しい町造りのために高梁川の河岸を埋め立て、護岸や石垣を築いて敷地を造成し、袋町・新町を設けて各地から商人を招き居住させ商業地として発展させた。従来からの本町には船問屋・鉄問屋等があるため、新しく造った新町には牛馬市場を置いた。町場は旧来の町場と共に新見町を形成して、備北の商業地となっていった。 元禄年間(1688〜1704)の検地帳によると、本百姓259のうち町方74・地方185。明治8年の家数710・人数2,863。この家数のうち、商業200・士族157・兼業を含めた農家は430であった。 江戸期には備中北部は鉄生産のかんな流しが盛んに行われた。かんな流しの鉄生産が盛んとなると、鉄の運搬には牛馬が使用され頑強な牛馬の生産に力が入れられ、新見の牛馬市場も活況を呈していた。又、鉄やその他の物資の輸送には新見までは牛馬が、新見からは高瀬船が重要な運搬手段であって、新見は高瀬船の起点となっていた。 今、古い町並みは高梁川の湾曲に沿って走っている旧新見街道の沿って形成されている。赤褐色や黒い屋根瓦の混じった町並み、ナマコ壁を備えた町屋も多い。切妻造り中2階建て、平入りで千本格子の町並み、中には虫籠窓を残した町屋もあり、見応えのある町並みだった。只旧街道に沿ってはいるが北半分はアーケードに覆われた商店街になっていて、伝統的な形式の建物がよく見えないのが残念だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989 岡山県の地名 平凡社 下中直也 1988年 |
新見の町並み |
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新見の町並み |
新見の町並み |
新見の町並み |
新見の町並み |
新見の町並み |
新見の町並み |
新見の町並み |
新見の三味線横丁 |
新見の三味線横丁 |
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