日野町根雨は鳥取県の西南部に位置し、日野川の中流域の宿場町である。 米子より日野川に沿って遡ってきた出雲街道は、根雨から四十曲峠を経て津山に向うが、根雨からさらに日野川を遡り石田峠を越えて新見、高梁を経て倉敷・岡山にいたる日野往来との分岐点の宿場であった。 このように根雨は交通上の要衝であったことから宿場町として、松江藩の参勤交代の道として、ここに茶屋本陣(七里茶屋)が置かれていた。 根雨宿の家数・人数は寛政8年(1796)134軒、弘化3年(1846)126軒、嘉永6年(1853)656人であった。 ヤマタノオロチ伝説につながるタタラ(鑪)と言われる山陰の鉄山稼業は、島根県の斐伊川筋の出雲南部で盛んであったが、鳥取県でも西伯耆の日野川流域中・上流部が鉄山地として栄えた。 日野地方の鉄鋼は700年もの昔から生産されていたが、江戸時代になると需要の高まりとともに、有力な鉄山師たちが活躍した。江戸中期を過ぎるころになると、この地の鉄鋼は大坂市場で極最上品と珍重された。そこえ安永8年(1779)現近藤家二代目の近藤喜兵衛が製鉄事業に乗り出してきた。 この地方の歴史を見るには「たたら製鉄」と近藤家なしには語れない。近藤家は18世紀中頃に備後からここ根雨に移住してきたもので、タタラ製鉄の資料は、根雨の近藤家に残る文章を除いては殆どまとまったものは存在しない。 「ここに名高き伯州の根雨の豪商近藤さん、日本全国第一の製鉄事業を起こされて…」と金次節に、また、田植え歌にも「大山の一なる鳥居は誰寄進、根雨の近藤さんの寄進やろ」と歌われている。 ここ日野川やもう一つ西の斐伊川は砂鉄の宝庫だったという。タタラ製鉄の砂鉄を採るのは「鉄穴(かんな)流し」と言われる山の土砂を崩し、水を流して土砂と砂鉄を選別する。選別された砂鉄は木炭で加熱された溶解炉に入れられ、タタラの送風により高温にして溶解され鉄分が取り出された。 この砂鉄の選別で大量の水が土砂とともに下流に流れる。山が崩れ洪水が起こり下流の田畑は荒れる。「古事記」記載の出雲の伝説スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治は、そんな下流農民が鉄山師に勝った記録かも知れないし、願望だったのかもしれない。オロチの体内から剣が出るのは誠に象徴的なことだ。 幕末には中国地方の生産高は全国の九割を占めたと言われている。明治7年には中国5県の生産高は全国の96%であったが、鳥取県では近藤家の生産高がもっとも多かった。 最盛期の明治の初めには鉄穴385ヶ所・製鉱場35ヶ所に上がり「一ヶ所のタタラは1000人を養う」といわれた。しかし、大正頃から輸入鋼に圧迫され始め、昭和20年までにタタラの景観は全く消え去った。 町並みは殆ど寒さに強い赤味の石州瓦で葺かれている。町並みを形成する伝統的な民家は切り妻造りの二階建て、赤い石州瓦葺き、平入り、格子、一部虫籠窓、白又は黒の漆喰壁で煙だしのある家、袖卯建のある家などであった。 近藤家の製鉄事業の開祖は二代目の近藤喜兵衛からで安永8年(1779)に最初の製鉱所を創設している。 近藤家は片方入り母屋造りで、もう一方は土蔵を取り込んでいた。二階建て、黒漆喰の長い虫籠窓、格子、出格子、赤味のある石州の桟瓦葺き、煙だしもあり、手入れのいい見越しの松が白い土塀の上からのぞき、町並みの景観に寄与していた。 道の両側の水路に清らかな水が勢いよく流れ、各家ごとにイケスをつくり、その清らかな水を取りいれて赤や白、黒の鯉を飼っておられる。根雨の神社、寺院には必ず近藤家の寄進と書かれた鳥居や常夜燈が多くあり、近世の根雨の歴史は近藤家の歴史でもあるようだ。 鳥取県の歴史散歩 山川出版社 鳥取県歴史散歩研究会 1994年 鳥取県の歴史散歩 山川出版社 因伯歴史研究協議会 1987年 にっぽん再発見 鳥取県 (株)同朋舎出版 豊島吉則 1997年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57 |
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