鶴首山北麓の下原村は成羽藩・旗本山崎氏の陣屋町として整備され、対岸の成羽村は成羽川舟運の河岸場として繁栄、吉岡・小泉銅山産出の銅・弁柄や備中北部や備後の鉄の積み出しで賑わった。 成羽藩は元和3年(1617)に山崎家治が2万6,500石で入封して成立した藩。寛永15年(1638)家治が肥後豊岡へ移封となり、翌16年水谷勝隆が5万石で入封したが、寛永19年(1642)松山に移り、幕府領となる。万治元年(1658) 旧藩主山崎家治の次男 山崎豊治が旗本5,000石として入ってきて、以降10代義柄で明治を迎えた。 山崎豊治は陣屋の営造と下原村に本格的な陣屋町を構築した。即ち水谷勝隆が計画した成羽川を北に付け替え、鶴首山北麓に御殿(陣屋)を新築し、そして鶴首山と河川の間に商人の移転を行い陣屋町の体裁を整えた。 下原村の陣屋町は延享3年(1746)の成羽陣屋覚書によると、町人家数20軒・人数90人。 「備中詩」では家数21軒・人数84人となっている。 山崎豊治によって建設された陣屋町は、享保期の町絵図によると、御殿(陣屋)を中心に愛宕山山麓には寺院群が配され、本丁に給人屋敷(100石程度)、柳丁に給人格(25俵程度)と中小姓(20俵程度)、裏丁に供小姓(18俵)や徒士(16俵)、鷹部屋丁に茶道(14俵)、星原丁には不断(11俵)・鉄砲(9俵)・足軽(10俵)・手廻格(4俵)などが居住していた。 町人屋敷は上ノ丁・中ノ丁・次ノ丁・下ノ丁にあった。 成羽村は陣屋町下原村の成羽川の対岸にあって、下原村同様元和3年(1617)から成羽藩領、幕府領を経て、万治元年(1658)から旗本山崎豊治領(後成羽藩領)で明治を迎えている。対岸の陣屋町を控えるこの成羽村は、河岸場として繁栄し、吹屋往来・成羽往来・笠岡往来が通り、米・煙草等の農産物や鉄・銅・弁柄など備中北部地域における鉱産物の集散地として繁栄し、河岸には諸問屋が軒を並べ、高瀬舟の河川舟運により玉島へ運ばれた。 延享3年(1746)の成羽陣屋覚書によると、家数373軒・人数1542人であった。 山崎氏の陣屋跡は一部石垣を残しているが、成羽小学校や町役場・美術館などの公共施設になっている。 本丁の上級武士の屋敷跡は商店街になってしまい武家屋敷の面影はないが、柳丁と星原丁は土塀が続いた武家屋敷の面影を残しており、町中には城下町特有の枡形も2ヶ所残っている。上ノ丁・中ノ丁・次ノ丁・下ノ丁・新町・東町などの旧町人町の町並みは、伝統的な家屋が連続しているとは云えないが、切り妻造り妻入り庇付きの家屋や切り妻造り又は入り母屋造り平入りの商家の建物が点在する。中2階建て、漆喰塗り込めの虫籠窓をもった家も多々あり、落ち着いた町並みを形成していた。 成羽川を渡った旧成羽村にも、伝統的な家屋が点在している。家屋の様式は陣屋町の町並みと同様であるが、こちらの方は陣屋町よりさらに静かな町並みで、人通りも少ない全くの住宅街であった。しかし旧街道に面した町並みであるのは容易に判る佇まいは伝統の重みだろう。 岡山県の歴史散歩 山川出版社 岡山県高等学校教育研究会 1991年 岡山県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1988年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 |
成羽(旧古町中ノ丁)の町並み |
下原(旧柳丁武家屋敷)の町並み |
下原(旧本町上ノ丁)の町並み |
下原(旧東町)の町並み |
下原(旧東町)の町並み |
星原(旧星原丁武家屋敷)の町並み |