流しびなの里 用瀬町(もちがせ)は流し雛で全国に名の知れた町である。 用瀬町も智頭町同様、智頭往還(上方往来)の宿場町であった。江戸時代に「お前在所はいずくときけば、父は用瀬お茶師さん」と茶もみ歌にうたわれているように、用瀬は因州きっての茶所であった。 因幡に山名時氏が興国元年(1340)因幡守として入国して以来、山名家に重臣として仕えていたのが用瀬氏であって、松茸尾城(古用瀬城)を居城としていたが、天正8年(1580)秀吉軍来攻の際、用瀬氏は城から追われてしまった。 現在の用瀬は、戦国時代の終わり頃にできた村であると考えられている。松茸尾城主用瀬備前守入道の一族である用瀬左衛門尉が、武士を捨てて原と名のり、、その子孫が開いた村であるというのである。 磯辺兵部太輔は秀吉が但馬に入った時、その軍に従い戦功を立てた。天正8年(1580)秀吉軍が若桜城、用瀬景石城、鹿野城を落とした後、若桜城と鹿野城の両城を結ぶ絆として、景石城(用瀬城)に磯部兵部太輔を入れ、禄高3000石を与えた。 磯辺兵部太輔は用瀬を城下町として整備し、この地方の中心としての形態を整え、宿場町として発展させた。 関ヶ原の戦い後、鳥取に池田長吉が入ってきたが、元和元年(1615)大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと、江戸幕府は再度大名たちを転封させ、因伯には播磨姫路から幼少の外様大名の池田光政を入部させた。こうして鳥取城を拠点に池田家が因伯両国32万石を統治することとなる。その後寛永9年(1632)に領主は分家の池田光仲に代わったが、因伯両国の統治を引き継ぎ、以来明治維新の廃藩置県まで鳥取藩政が展開された。 用瀬は鳥取藩の行政上の要地であり、智頭往来(上方往来)にそった宿場町であった。当時の戸数約280戸、人口1000人余り、本陣(お茶屋)・牢屋・制札場も設けられた。町並みは街道沿いに8町ほど続き、毎月2と7の日(月6回)に定期の用瀬市が開かれ、近郷からの人たちで賑わいを見せた。 用瀬には藩役人として「目付け」と「山奉行」が駐在し、監視と取り締まりに当たっていた。用瀬の山奉行は国境に接していたので番所をも兼務していた。 亀屋四郎三郎は嘉永6年(1853)宇治から茶師を招いて製茶を始め、明治元年には職工50人の製茶工場を建設した。明治8年には21戸の製茶業者を数え、海外にも輸出されるなど明治10年代が全盛期であった。 用瀬は流しびなの里として全国に知られている。もともと物忌みの行事で、紙などで人形(ひとがた)を作り、これで身体をなで、災いをその人形に移して川や海に流す行事から生まれた風習である。雛流しそのものの原形は、平安時代にさかのぼると云われている。 今では旧暦の3月3日男女一対の紙雛を桟俵にのせ、菱餅や桃の小枝を添えて、災厄を託して千代川に流す民俗行事で、昭和60年に県無形民俗文化財に指定されている。 上方往来に沿って奥本家・徳永家・桂城家・小松家など古い商家の建物や大型の民家が点在する。軒を連ねてはいないが、宿場町の面影はあちこちで感じられる。大きな商家などは見当たらないが、町並みとしてまとまっているのは用瀬五区で、因美線踏み切り近くには番所跡もあった。 鳥取県の歴史散歩 山川出版社 鳥取県歴史散歩研究会 1994年 鳥取県の歴史散歩 山川出版社 因伯歴史研究協議会 1987年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 にっぽん再発見 鳥取県 (株)同朋舎出版/豊島吉則 1997年 用瀬町誌 用瀬町 町史編纂委員会 |
旧造り酒屋 |
街道筋の町並み |
用瀬五区の町並み |
街道筋の町並み |
用瀬五区の町並み |
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