古くから溝口には米子町から溝口宿ー二部宿ー根雨宿ー板井原宿を経て四十曲峠を越える出雲街道と、伯耆街道の小波村(現淀江町)から分岐して、日野川沿いを遡上して備後に抜ける日野往来とが交差する交通の要衝であった。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、伯耆一国は米子城主中村忠一の領地、その後、黒坂鏡山城主関氏領となり、元和3年(1617)に池田光政領となるが、寛永9年(1632)に池田光政と池田光仲との国替えを経て、鳥取藩領として幕末を迎えている。 出雲街道は出雲松江藩主の参勤交代路として利用されたため、宿駅として溝口・二部が指定されていた。そして松江藩は参勤交代のため専用茶屋を設け、七里茶屋と呼ばれていた。 文久2年(1862)松江藩は日野川の氾濫などにより、渡船・川止の不便を避けるため、米子町から天万宿(現合見町)ー二部宿経由の新出雲街道に変更したので、溝口宿は主街道から外れることになった。しかし明治16年〜20年の溝口ー板井原間の道路(現国道181号線)大改修によって主要街道が復活した。 延享3年(1746)の巡見使案内手帳によると、家数106軒・人数412人。明治12年の家数127軒・人数519人である。 この地の産業は製鉄にかかわるもので、鉄穴流し遺跡や炉跡が多く見られ、幕末にかけては牛市や薬種業・藍問屋などが許可されている。 江戸末期から明治の中頃までは、宿場町としての機能はなかったが、今、町並みを歩くと数は少なくなっているが、江戸末期から明治にかけて建てられた伝統的な商家の建物が点在する。旧街道を避けて国道181号線が通ったため、旧街道沿いの宿場町は静かな佇まいを見せ、切り妻造りの中2階建てや2階建て、平入りで赤い石州瓦が町並みを彩る。中にはナマコ壁や袖壁を備えた商家の建物、見越しの松のある重厚な建物などが約1km程度の旧街道沿いに展開していた。 鳥取県の歴史散歩 山川出版社 鳥取県歴史散歩研究会 1994年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 鳥取県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 中国地方のまち並み 中国新聞社 日本建築学会中国支部 1999年 |
溝口の町並み |
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