真庭市宮地は寛永備中国絵図・正保郷帳に見られる水田村に含まれ、水田村の枝村下水田村の一部だったと思われる。元禄8年(1695)の旧松山領新高帳に宮地村と見え、天保郷帳には水田宮地村とあり、明治22年からは水田村大字宮地となる。 宮地村の江戸時代は、毛利氏の支配を経て、はじめ幕府領、元和3年(1617)松山藩領、元禄6年(1693)幕府領、元禄16年(1703)遠州浜松藩領、のち幕府領、享保20年(1735)大坂城代太田氏領、延享元年(1744)から幕府領。なお文化7年(1810)から天保9年(1838)は津山藩預かり地。明治24年の家数203・人数1,271。 宮地は旭川水系に属することから、古くから商業などの生活圏は北方の真庭郡(勝山・久世など)との結びつきが強かった。又、新見・勝山・落合・松山(現高梁市)への往来も通る交通の要衝であった。 今、古い町並みは水田小学校から北の備中川までの約700m程の間に展開している。この往来は上有漢を通って松山(現高梁市)に通じた道。 近郷の商業の中心地だったようで、往来に面して商家建物が連なる。切妻造り平入り、中2階建てでナマコ壁がこの地の伝統的な家の様式ですが、千本格子を残した家もあったが、大部分はガラス窓に改装されていた。赤褐色の瓦の家もあり裏日本との関わりも深かったことが判る町並みであった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989 岡山県の地名 平凡社 下中直也 1988年 |
宮地の町並み |
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