真庭市美甘は県北西部に位置し、出雲往来が通る宿場町であった。 江戸初期に出雲往来の整備が行われ、特に新庄村と鳥取県境の四十曲峠が山陰の諸大名の参勤交代路となると、本格的な整備と位置付けが行われた。 陰陽を分ける四十曲峠を控える新庄と高田(現真庭市勝山)には宿が設けられ、美甘もその間宿として機能した。安永4年(1775)には松江藩の本陣(お茶屋)が置かれた。これとともに民間の運送業も発達し、美甘は宿場町としての機能も充実し、往来筋2町10間(240m)の間に33軒の家並みが出来た。また、周辺の地域から産出する砂鉄や木地の仲買である鉄問屋株・木地問屋株、さらに酒造株もあった。 当地のたたら製鉄は近世に入っても盛んであったが、安永2年(1773)には勝山の瀬戸屋六蔵が、その後山陰の近藤家や備中の大資本が入り、明治初年まで約90年間がたたら製鉄の全盛期であった。 たたら製鉄が下降に向かうと、今度はその跡地を利用して葉煙草栽培や和牛飼育が盛んとなった。新庄牛は性質温順で体格も良く、良く使役に耐える和牛として重宝された。林業も明治に入って盛んになった。 出雲往来は美甘村全体では南北に通っているが、美甘集落ではほぼ東西に出雲往還が通っている。 宝暦11年(1761)の巡見使案内帳によると、家数146・人数591とあり、町(宿)の長さは2町で、約40軒ほどが立ち並ぶとある。 国道181号線(出雲往還)は宿場町の外側をパイパスとして通ったため、宿場町はそのまま残った状態で、見ごたえある町並みを形成していた。 旧街道に面して建つ家々は宿場町当時の40軒ほどのままであり、平入りの伝統的な様式で建つ家屋の連続性は素晴らしいものであった。 山陰地方の赤褐色の瓦と岡山山陽地方の黒瓦の割合が半々程で、ここまで来ると山陽・山陰地方建築様式や文化も融和したものとなっているようだ。 岡山県の歴史散歩 山川出版社 岡山県高等学校教育研究会 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 |
美甘の町並 |
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