真庭市蒜山上徳山の町並 
蒜山上徳山(延助)
地図


蒜山上徳山(延助)の町並

 真庭市蒜山上徳山は岡山県北西部、蒜山盆地の西端、瀬戸内海に流れる旭川の最上流水源地帯に位置する。
宇喜多氏、小早川氏支配を経て、慶長8年(1603)津山藩領、享保12年(1727)幕府領、天明7年(1787)〜寛政11年(1799)は下総佐倉藩領、文政元年(1818)津山藩領、天保9年(1838)幕府領(津山藩預かり地)。
村高は「作陽誌」287石余、「美作鬣鏡」と文化10年(1813)の「美作国郷村記」では404石余、「天保郷帳」「美作鏡」「旧高旧領」ともに413石余。
家数・人数は「作陽誌」元禄初頭で57・322、宗門改帳では文化15年(1818)102・443、嘉永元年(1848)92・377、明治元年88・369。
藤森村(現真庭市)から鳥居峠を越えて郷原宿を経て、上徳山の延助宿を通過する大山往来は大山信仰の普及と享保11年(1726)の大山牛馬市開設とともに活況を呈した。上徳山村延助は大山往来の宿駅で、往来に沿って町並を形成し、大山詣での旅客、春・夏・秋の大山牛馬市の博労宿として栄えた。
備前や上方の博労たちは多くの追子を連れて湯原温泉に泊まり、延助を通過して下蚊屋・御机(江府町)の博労宿に泊まり、翌日早朝の牛馬市に臨んだ。帰路は多くの牛馬を買って延助に宿泊した。多くの牛馬が軒下にびっしりと並ぶ賑わいであった。
また、延助宿に天保3年(1832)には馬持稼3人が常駐して、藤森村などと山陰・山陽の物資の継送りも行われ、博労5人・商人5人がおり、蒜山地方の商業活動の中心で、山中煙草の集散地でもあった。
今町並を歩くと、旧大山往来の両側に町並が展開している。この大山往来は延助宿では道路幅が広い。明治22年に宿場で大火があり多くの家屋が焼失した。殆どの家がその後の建築と思われるので、背の高い2階建ての建物が多いが、平屋家屋や中2階建て建物も混じる町並であり、道路幅が広いのは防火のためと、牛馬を繋いだ名残と思われる。
ここも大型の家屋が多く、古い家屋では殆ど平入で、街道に沿って全面開口できる様な建物が多いのは大山詣での講中の名残があるのかも知れない。
町並み指数 40
参考文献  
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年
  岡山町並み紀行   山陽新聞社  富阪 晃   1999年
  岡山県の地名   平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1988年

蒜山上徳山(延助)の町並

蒜山上徳山(延助)の町並

蒜山上徳山(延助)の町並

蒜山上徳山(延助)の町並

蒜山上徳山(延助)の町並

蒜山上徳山(延助)の町並

蒜山上徳山(延助)の町並

蒜山上徳山(延助)の町並

蒜山上徳山(延助)の町並

蒜山上徳山(延助)の町並
古い町並へ戻る