真庭市蒜山西茅部の町並 
蒜山西茅部(郷原)
地図


蒜山西茅部(旧郷原宿)の町並

 真庭市蒜山西茅部は岡山県北西部、蒜山盆地南部、瀬戸内海に流れる旭川の最上流右岸に位置する。
宇喜多氏、小早川氏の支配を経て、慶長8年(1603)津山藩領、享保12年(1727)幕府領、明和元年(1764)からは勝山藩領。村高は「作陽誌」276石余、「美作鬣鏡」と文化10年(1813)の「美作国郷村記」では570石余。「天保郷帳」575国余、「美作鏡」「旧高旧領」ともに395石余。
元禄初頭の家数83。
藤森村(現真庭市)から鳥居峠を超えて当地に入る大山往来の宿駅、郷原集落は漆器生産で知られていた。生産の始まったのは明徳年間(1390〜94)とされ、「作陽誌」にも宿駅と漆器生産の記録がある。正保4年(1647)には郷原木地屋が10軒あって、ピーク時は宝永〜元文期(1704〜41)で、郷原に40〜50軒の木地師がいたが、寛政期(1789〜1801)に10軒前後に激減、代わって塗師屋が増え、寛政11年(1799)に8軒、文政13年(1830)には木地屋9軒、塗師屋24軒が大山街道沿いに軒を並べていた。幕末期の慶応元年(1865)には木地師37名で椀木地を一年に2,000丸(1丸は蓋付200人前)生産し、塗師が漆を塗り、その代金が約3,400両にもなったという。
郷原輪島とも称された郷原漆器は栗で造る椀類が主体で、手堅い塗りと実用性が重宝され、販路は主に山陰地方の松江や出雲であった。大正期が一番最盛期でそれ以後は大量生産の瀬戸物に追われ衰退し、一部昭和に入ってからも続けられていたが、現在は完全に廃れた。明治24年の家数140・人数610。
集落の入口に大きな石造りの鳥居が建っている。茅部神社の大鳥居で、明神型石鳥居としては日本最大と言われている。集落は旧大山往来に沿って家屋が建ち並んでいる。大型家屋の家も多く、街道に面した平入家屋の連なり。平屋建て・中2階建て・2階建てが混じっているが、2階建ての家が多いのは明治以降に建てられたものだろう。昭和の初めまで続いた漆器での繁栄の名残と思われる。だが、ここも過疎の進行には耐えられず、多くの家で人の気配が感じられない無住家屋になっていて心痛む探索であった。
町並み指数 40
参考文献   
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年
  岡山町並み紀行   山陽新聞社  富阪 晃   1999年
  岡山県の地名   平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1988年

蒜山西茅部(旧郷原宿)の町並

蒜山西茅部(旧郷原宿)の町並

蒜山西茅部(旧郷原宿)の町並

蒜山西茅部(旧郷原宿)の町並

蒜山西茅部(旧郷原宿)の町並

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蒜山西茅部(旧郷原宿)の町並
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