近世には出雲街道・大山道の交差点として繁栄し、旭川には河岸が置かれ、美作の物資を岡山城下に運送する拠点であった。 宇喜田氏から小早川氏の支配を経て、慶長8年(1603)津山藩領、享保12年(1727)からは幕府領になった。延享2年(1745)に鳥取藩預となったが、宝暦5年(1755)代官所支配に復し、文化14年(1817)再び津山藩領となり、明治に至った。 現久世町の中心地久世村は、元禄4年(1691)の「作陽詩」によると、旭川沿いに広がる町並みと方辺山などの山裾に開ける農村集落に二分されていて、前者を久世原方村、後者を久世山方村といった。久世原方村は元禄(1688〜1704)頃には出雲街道・大山道の追分宿となって繁栄した。原方村を作陽詩でみると、町並みの長さ五町、家数207軒・人数1588人。天保9年(1838)の津山藩領郡村記録では家数398軒・1542人となっている。 享保12年(1727)幕府の代官所が原方の上町に置かれ、牛馬問屋の後安家も上町に移住してきた。上町から中町、下町裏の旭川土手には、高瀬舟の船着場があり、年貢米その他の物資が岡山城下に積み出された一大集散地であった。 久世宿は寛永12年(1635)の武家諸法度によって制度化された参勤交代の成立期に開かれ、幕府巡検使や出雲松江藩・広瀬藩の参勤交代の宿駅の機能を果たした。もとは出雲街道のみが通ったが、元禄(1688〜1704)頃より大山道も通るようになった。景山家が松江藩・広瀬藩の本陣を勤めるようになったのは、宝暦6年(1756)からである。景山家は慶長17年(1612)頃、鉄山の稼業のため当地に移住してきたもの。 春秋2回の牛馬市も立ち、久世宿は博労宿でもあって、博労問屋は13軒もあった。 今 この町を歩くと、旅館や飲食店が多いのに驚く。近郊からや遠くは津山辺りからも客が来るそうだ。古い町並みは旧街道に沿った旧下町・旧中町・旧上町と国道181号線の北側の旧早川町・旧東町・旧西町などに点在する。街道に沿った旧下町・中町・上町はそのまま商店街になってしまい、伝統的な白漆喰塗り込めの家屋はアーケイドの下になったり、看板で隠れたりしているのが多い。 国道の北側は北に向かう旧大山道に沿って、切り妻造りの妻側に水切り瓦やナマコ壁になった商家建物が少しは残っている。 そんな中に村澤家というかっての油屋で、伝統的で重厚な商家建物があった。頼めば内部も見せてもらえると近所で聞いたが、生活されていたのでそこまでは頼めなかった。 岡山県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1988年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 |
旧下町の町並み |
旧下町の町並み |
旧上町の町並み |
旧西町の町並み |
旧東町の町並み |
旧東町の町並み |