倉吉市は鳥取県の中央部に位置する町で市街の南に打吹山がある。その北側麓の魚町・東仲町界隈には格子戸をつけた造り酒屋や醤油屋などの商家が並び、裏側の玉川沿いには白壁の土蔵群が並ぶ。 この打吹山に城を築いたのは延文年間(1356〜61)に、伯耆山名師義である。戦国時代の出雲尼子経久を経て毛利氏の支配下になり、天正13年(1585)に羽柴秀吉と毛利の講和が結ばれると、この地は秀吉の家臣南條氏の領有となり、打吹城は南條氏の重臣が交替で守った。 この城を整備したのは南條氏である。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に味方した南條氏が滅ぶと、伯耆国は関ヶ原での功により、駿河府中(静岡市)の中村忠一が米子城に入って治めることとなり、一族の中村伊豆守栄忠が倉吉を支配した。慶長14年(1609)中村忠一は20歳の若さで急死し、跡目がないため収公されて以後幕府領となり、幕府代官の支配するところとなったが、元和元年(1615)の一国一城令で打吹城は廃城となった。このような情勢のもとで、打吹城下の商人の米子への移住も行われ、一時倉吉の発展が阻害されたこともあったが、山陰中部の穀倉地帯で、河川交通の便も良好な地の利を生かして次第に街としての充実が進んだ。 元和3年(1617)因伯二国が池田光政によって領有されると、倉吉は城下町から宿場町へと性格をかえ、光政の重臣伊木忠貞により倉吉の治水工事が行われ、河川氾濫防止のため堤防が築かれた。 これにより旧市街を流れる玉川沿いの、魚町から西町にかけて町人たちの白壁の土蔵が建ち並び、農民の田畑を守り、収穫の確保ができた。寛永9年(1632)池田光仲が因伯に封ぜられ鳥取に入ると、倉吉は次席家老の荒尾氏が治めるところとなり、明治維新まで打吹山麓に陣屋を構えていた。 寛延2年(1749)の家数は侍屋敷79・町屋敷903、人数2928人であり、宝暦年間(1751〜64)の町屋敷924軒、文化7年(1810)3699人、弘化3年(1846)4424人であった。 倉吉の市街地は打吹山と小鴨川の間の形成された東西に細長い町並みである。寛延年間(1748〜51)ころに描かれた「倉吉御陣屋絵図」では、陣屋は現在の成徳小学校の位置にあり、街路はT字路・喰い違い・袋小路が設けられていて、城下町(陣屋町)の特徴が随所に見られる。 武家屋敷は葵町・東町と仲の町、瀬崎町に所在した。いわゆる陣屋を中心にして東西に両翼を広げるように配置され、東側に上級の武家屋敷、西側には中級武士が住んだようだ。また、大岳院裏(現在の荒神町)に足軽屋敷を置いた。 町並みは東西に縦断する本通筋と新町筋沿いに展開している。本町筋の町家は南側が武家屋敷街に接し、北側は東流する玉川によって区切られる。西方より西町。西仲町・東仲町・魚町と続く商人町である。新町筋の町家は玉川とその北側に東流する鉢屋川の間に挟まれた地域で、現在の鍛冶町から研屋町までが職人町であった。 玉川の南側は商人町、北側は職人町で南側の魚町から西の東仲町、西町にかけて古い倉吉の町並みが残り、裏手の玉川沿いには江戸時代から明治にかけて建てられた町家の土蔵群が並んでいる。江戸初期に酒屋・油屋・米屋などが西町から岩倉町に集中し、これらの商いは土蔵を必要とした。このことが土蔵群のある町並み形成の要因になっている。 土蔵群は本町通りにある商家の裏門蔵や裏座敷・醸造蔵や醤油蔵などの建築物で構成されていた。また、玉川には石橋がかけられといて、玉川と石橋と土蔵群の白漆喰の壁、焼き杉の黒い腰板、蔵を支える石垣が、倉吉の古い町並みの景観の中心になっている。 本町通りの伝統的な町並みは魚町にも続き、どの建物も赤茶色に施釉された耐寒性の強い石州瓦の桟瓦が用いられていて、山陰独特の赤瓦屋根の景観美を形成している。切り妻造りの平屋・中二階・二階建の平入りの商家が軒を並べる。 江戸時代から明治にかけて、倉吉の特産のに「稲扱千刃」があった。倉吉製の稲扱が有名なのは、近くの日野産の印賀鉄を用い、歯陵が摩滅せず長年の使用に耐えたためで、主として鍛冶町の鍛冶屋で製造された。 鳥取県の歴史散歩 山川出版社 鳥取県歴史散歩研究会 1994年 鳥取県の歴史散歩 山川出版社 因伯歴史研究協議会 1987年 にっぽん再発見 鳥取県 (株)同朋舎出版 豊島吉則 1997年 山陽・山陰小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1999年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 |
本町通り魚町の町並み |
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玉川沿いの土蔵群 |
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玉川沿いの土蔵群 | 玉川沿いの土蔵群 |