倉敷市本町・東町の町並 
本町・東町
地図


本町の町並
  今 蔵屋敷が立ち並ぶ倉敷の町ができたのは今から約400年ほど前の江戸時代はじめである。それ以前の倉敷は亀居島と呼ばれた阿智神社のある鶴形山の南麓に漁師や水夫が住んでいるのみで、鶴形山は瀬戸内海に浮かぶ島だった。
天正12年(1584)、岡山城主宇喜多秀家によって酒津、浜、早島に至る干拓の長い堤防が築かれ、広大な農地が生まれた。
その頃高梁川の沖積作用で、鶴形山の周辺の干潟は急速に陸地化していった。そして干潟に残された水脈は水路となり、この水路が今の倉敷川である。倉敷川は倉敷美観地区に始まって、児島湖に注いでいる延長13.5kmの川である。
大坂冬の陣、夏の陣ではここ倉敷湊から大坂へ兵糧米を積み出していることから、江戸時代初期には倉敷は備中の各地から集めた米の集散地になっていたわけだ。元和5年(1619)の記録では、倉敷村の戸数149軒で、紀国屋など13軒の豪農がいて、庄屋、年寄り、百姓代などの村役人を勤め、船頭たちの取り締まりもしていた。
関ヶ原の戦い後、倉敷村は幕府領となり、元和3年(1613)松山藩領、寛永19年(1642)幕府領、天和3年(1683)庭瀬藩領、貞享3年(1686)丹波亀山領、元禄15年(1702)幕府領、宝永7年(1710)駿河田中藩領、享保6年(1721)から幕府領で、延享3年(1746)に幕府の倉敷代官所が設置された。倉敷の町が発展して経済活動が盛んになったためだ。
17世紀中頃から18世紀中頃には新田開発で農地が増え、干拓地での綿の栽培で、木綿の仲買、繰り綿屋、干鰯屋、綿実買い、紺屋といった商工業が興り、近郊から人々が流入し人口が爆発的に増加した。元和5年(1619)の倉敷村は戸数149軒とあるが、76年後の元禄8年(1695)にはなんと6倍の912軒、人口3820人になっていた。それから75年後の明和7年(1770)には、倉敷村の家数は1813軒、人口は6835人にもなっていた。
安永元年(1772)の職別構成を見ると、農業888軒に対して、工業135軒、商業491軒、その他319軒の計945軒で、非農家戸数が半数以上となっている。すでに倉敷は延宝5年(1677)から貞享元年(1684)の頃には、水夫や漁師の住む集落から都市的集落に変貌していた。
宝永7年(1710)の町の絵地図によると、倉敷川畔のほか、本町を中心に東西に長い町並が形成されている。そして、川岸や東西本町に大店があり、西には間口の狭い屋敷が多い。船つき場に近い所が一等場所だったようだ。
倉敷村には、江戸時代初めから13軒の豪農(古録)、紀国屋(小野家)、俵屋(岡家)、宮崎屋(井上家)などによって、庄屋、年寄り、百姓代などの村役人を世襲し、木綿問屋、米穀問屋、質屋などの特権を持ち経済的にも、政治的にも倉敷村を牛耳っていた。
しかし江戸中期頃より、綿作の発展によって財を成した新興商人が台頭してきた。彼らは児島など近郊からの借家、借地人として倉敷に移住し、木綿・菜種などの商品交換のなかで綿仲買、干鰯売り、油絞りとしての商業利潤を蓄積しながら、次第に富裕化した新興商人である。彼ら25軒は古録派に対して新録派とよばれた。これら新録派、児島屋(大原家)、中島屋(大橋家)、浜田屋(小山家)、吉井屋(原家)、日野屋(木山家)などは村役も要求するようになり、寛政2年(1790)から文政11年(1828)にかけてすさましい勢力争いを続け、ついに新録派の勝利に終わった。
倉敷市の観光名所の美観地区は何時も観光客でごった返しているが、ここで本題にしている本町・東町は
美観地区を流れる倉敷川から一本北側の道路(本町通り)から、鶴形山公園の南麓に沿った街道に広がる町で、倉敷の発祥の地である。室町時代から戦国時代、江戸時代の初期までは漁師や水夫などが住んでいたところだが、干拓によって人口が増えだした最初の地域である。本町通りは昔は東町筋と呼ばれ、倉敷の中心街と早島とを結ぶ街道だった。道の両側には、質屋・古手屋・染物屋・桶屋・畳屋・提灯屋・饅頭屋・駄菓子屋・表具屋などが店を並べた下町だった。今でも提灯屋・染物屋・畳屋・表具屋などの店は健在な庶民の町として残っている。
庶民の町、下町と云うと雑然とし、ガチャガチャとした印象を受けるものであるが、ここ倉敷の本町・東町界隈は
中2階建て・白漆喰塗り込めの虫籠窓、本瓦葺き、平入りまたは妻入り、格子などが備わった落ちついた綺麗な町並である。
そして本通りには古録派の井上家住宅(宮崎屋)がある。現存する倉敷の町屋で一番古く、古録派の住宅で残っている唯一のものだが、荒れるに任せてあり随分痛んでいた。
本町通もアーケードのあるところでは、中2階建ての伝統的な町並も隠れていてよく見えないが、誓願寺辺りのアーケードがなくなったところから、古録派の井上家の少し東で、南の向市場筋へ下がる道までの間には、美観地区同様に大型の伝統的な商家の建物が数多く残っていた。
東町にある呉服店には大きなガス燈が庇の上に揚っていて、袖卯建も備わっていた。「くらしきの宿東町」は元呉服屋の建物、阿智神社参道入口にある造り酒屋は黒壁であった。
町並み指数 70
参考文献 
  岡山町並み紀行  山陽新聞社  富阪 晃  1999年
  倉敷のまち  山陽新聞社  山陽新聞出版局  1995年
  岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等学校教育研究会  1991年
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
  歴史の町並み事典  東京堂出版  吉田桂二  1995年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年

本町の町並

本町にある古録派の井上家

本町井上家の横(本栄寺の路地)

東町の町並

東町の町並

東町の町並(旅館の東町)
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