倉敷の町は江戸時代には、川岸に沿って白壁・ナマコ壁の蔵屋敷が建ち並び、通りに商家が軒を連ね、背後に綿作地を持ち、倉敷川を利用したこの地方きっての商業都市であった。 天正12年(1584)、岡山城主宇喜多秀家によって酒津、浜、早島に至る干拓の長い堤防が築かれ、広大な農地が生まれた。 その頃高梁川の流す土砂の沖積作用で、鶴形山の周辺は急速に陸地化していった。それまでの鶴形山は瀬戸内海に浮かぶ小島で、山の南麓に漁師や水夫の住む集落ができていた。干潟に残された水脈は干拓地を貫く水路となった。この水路が現在倉敷美観地区に始まって、児島湖に注いでいる倉敷川である。 江戸時代初期には、倉敷はすでに備中の各地から集めた米の集散地となっていて、もうその頃には13軒の豪農(古録)がいて、庄屋、年寄り、百姓代などの村役人を勤め、船頭たちの取り締まりもしていた。 17世紀中頃から18世紀中頃には新田開発で農地がどんどん増え、干拓地では綿花が栽培され、これを扱う綿実買い、木綿の仲買、繰り綿屋、干鰯屋、紺屋といった商人も集まり、人口が爆発的に増加した。 倉敷村の村高は慶長6年(1601)の619石が、寛永7年(1630)に1385石、安永元年(1772)に1834石になっていて、以降は殆ど変わっていない。江戸初期の干拓によって飛躍的に増えたことが判る。人口は慶長6年(1601)に800人程度と推定されるが、寛文12年(1672)に2536人、享保18年(1733)に5392人、明和7年(1770)に6835人、天保9年(1838)に7989人と増加している。村高が増加してないのに、人口が大幅に増加しているのは、商業都市としての発展の結果である。 江戸時代初めから前述のように、13軒の豪農(古録)、紀国屋(小野家)、俵屋(岡家)、宮崎屋(井上家)などによって、庄屋、年寄り、百姓代などの村役人を世襲し、木綿問屋、米穀問屋、質屋などの特権を持ち経済的にも、政治的にも倉敷村を牛耳っていた。 しかし江戸中期頃より、綿作の発展によって財を蓄積した新興商人が頭をもたげてきた。これらの人たちは児島などの近郊から丁稚奉公で倉敷にきた者が多く、木綿・菜種などの商品交換の中で綿仲買、干鰯売り、油絞りとしての商業利潤を蓄積しながら、次第に富裕化した新興商人である。彼ら25軒は古録派に対して新録派とよばれた。これら新録派、児島屋(大原家)、中島屋(大橋家)、浜田屋(小山家)、吉井屋(原家、日野屋(木山家)などは村役も要求するようになり、寛政2年(1790)から文政11年(1828)にかけてすさましい勢力争いを続け、ついに新録派の勝利に終わった。 倉敷の町で堂々たる商家は殆ど新録派の家々である。近代産業の尖兵となった倉敷紡績の大原家、倉敷=大原美術館といわれる大原美術館は、大原孫三郎が集めた絵画の展示場である。 美観地区 今橋のたもとに大原家住宅がある。倉敷紡績・大原美術館の大原家で、「児島屋」といい、綿仲買商人として台頭し有力新興商人新録派の一員であった。建物は寛永7年(1795)建築。切り妻造りだが妻側に短い庇のついた特殊な形をしている。本瓦葺、中二階、白漆喰塗り込めの塗屋造り、虫籠窓の一種の倉敷窓、倉敷格子といわれる親付き切子格子、東側の道路に面した壁は腰高の石積みの上部が軒近くまで貼り瓦となっている。 その他上げれば切りがないが、今は旅館鶴形になっているが大原家より50年も古い寛保4年(1744)建築の旧小山家(浜田屋)が、阿知3丁目には倉敷でただ一軒公開している商家の大橋家(中島屋)が、アーケードの商店街には原家(吉井屋)があり、駒繋ぎの環が付いていた。 倉敷川両岸とその周辺の町並みは、当時の豪商の町家が骨組みを成しているが、大原家に代表されるような塗込め造りが殆どで、それに土蔵造りの蔵が加わり、昔はなかった両岸の柳並木に彩られた倉敷川の堀割越しに見る町並みはさすがに一級品である。いや柳の風情が増えただけ昔以上かもしれない。 岡山町並み紀行 山陽新聞社 富阪 晃 1999年 倉敷のまち 山陽新聞社 山陽新聞出版局 1995年 岡山県の歴史散歩 山川出版社 岡山県高等学校教育研究会 1991年 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 歴史の町並み事典 東京堂出版 吉田桂二 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 |
美観地区の民家(大原家) |
美観地区の大原美術館 |
美観地区(奈良萬路地)の町並み |
美観地区の町並み |
美観地区の町並み |
美観地区(大原家裏の路地)の町並 |