倉敷市呼松の町並 
呼松1丁目・2丁目・3丁目
地図


呼松の町並み
 児島半島の水島コンビナートの東に位置する呼松ですが、かっては高梁川の河口で瀬戸内海水島灘に面していたとは想像しがたい場所になってしまっている。
宇喜多氏、小早川氏の支配を経て、岡山藩領となりそのまま明治を向かえている。呼松村は典型的な漁村集落で、慶長9年(1604)の検地帳には高71石余りとあり、田2町2反余り・畑7町7反余り、享保6年(1721)編纂の「備陽記」によると田畠10町3反余りで家数87・人数692とあり、「四季共猟あり」とあり船数39とある。
以後の家数・人数は元文元年(1736)99・909、元治2年(1865)237・1,782と周辺の干拓に伴い急増している。
干拓も進んでいるが、人口増加も著しく、いぜん典型的な漁村集落であった。それを船数で見ると、寛政10年(1798)85、文化10年(1813)167うち肥船16、元治2年(1865)237うち肥船30で多くは漁船が占めていたが、物資輸送にも使われた。
たたら製鉄による高梁川からの土砂の流入は大きく、土砂の堆積が進み、それを干拓するという事業が繰り返されて興っている。享保10年(1725)完成の福田新田に続いて、その地先に新田が開発され嘉永5年(1852)には高入れされた。それにより呼松港は狭水路の奥の漁港となってしまった。
でも、漁業を主な生業とするのはそれ以後も続き、耕地が少なく、人口が多い典型的な漁業集落状態だったが、繊維関係の家内工業も興ってきた。
今、呼松集落は西側・北側・南側全てを水島コンビナートの化学工場群に占領され、東側は鴨ヶ辻山に遮られた南北に長い集落形態を保っている。集落内の旧海岸沿いを南北に貫く道が通りその両側と東側僅かな傾斜地に集落が展開している。集落内では多くの商店が店を開いて、港町・漁村・商業地として栄えていたのが歴然と判る町並。今になれば海岸から5〜6kmも離れているが、漁村風景の板囲いで細い路地に並んだ家屋も多く、漁村と商業地が一緒になった町並み様相だった
町並指数  60
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989
  岡山県の地名  平凡社  下中直也  1988年

呼松の町並み

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