田之口村は下村同様に金毘羅参詣・四国遍路・瑜伽山(由加山)参詣の渡海港として発展した。 宇喜田氏・小早川氏の支配を経て、慶長8年(1603)から岡山藩領、天城陣屋家老池田氏に知行所。田之口の港は瑜伽山参詣の表参道口にあたり、やがて讃岐金毘羅参詣・四国遍路のための渡海港としても発展し、下村の堀江が独占していた渡海業へ進出していった。文政元年(1818)の村内渡海職25人、それが天保13年(1842)には船宿船持ち共34人・新船持ち15人となり、下村を上回っていた。 享保6年(1721)に家数143・人数1,060。文化年間(1804〜18)の「岡山藩領手鑑」によると家数245・人数1,474とある。「金毘羅参詣名所図会」には中国四国往返の船泊港で、瑜伽詣・金毘羅詣客相手の船宿が立並び、木綿糸の組紐・真田織の商家で賑わっている様子が描かれている。幕末には小倉織・真田織が盛んになり、村内に有力織元が二軒あり、多数の有力商人が出た。又、明治浜と称された塩田もあり、明治14年には3,421石を産出した。 讃岐丸亀へは海上6里余り、晩方に出帆し明方に着いた。 明治24年の家数619・人数2,682。明治中頃から瑜伽参詣客が減少、また海上交通機関の変革で帆船が機動化・大型化し沿岸航行は衰退、また明治43年国鉄宇野線の就航で下津井・吹上・下村・田の口とも急激にさびれた。そして塩田も第2次世界大戦後の琴浦港築造のため田之口地域の全塩田が消滅してしまった。 この地を訪ね、古い町並は??と探すのであるが、なかなか見つからない。もう10年以上古い町並みを訪ね歩いているので、地図を見ると大体の見当はつくのだが??。 そうすると意外や、田之口の湊から瑜伽山参拝の参道に沿って古い町並みが展開している。 瑜伽山参詣で如何にこの地が賑わっていたかが判る町並であった。細い路地道のような湾曲・屈曲を繰り返して続く参道の両側に、伝統的様式の商家の建物が続く。現役の造り酒屋さんが健在なのにも驚いた。この町並みの多くの家で土産物として真田紐が売られていたのだろう。 ナマコ壁を備えた土蔵、虫籠窓を残した漆喰塗り込めの中2階建ての家屋、千本格子を備えた家、明治末期から大正にかけて建てられたようなレンガ造りの工場群等々、古い町並を構成する要素が全て揃った町並みであった。 岡山町並み紀行 山陽新聞社 富坂 晃 1999年 岡山県の歴史散歩 山川出版社 岡山県高等学校教育研究会 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 岡山県の歴史散歩 山川出版社 岡山県高等学校教育研究会 1991年 |
児島田の口4丁目の町並み |
児島田の口4丁目の町並み |
児島田の口4丁目の町並み |
児島田の口4丁目の町並み |
児島田の口4丁目の町並み |
児島田の口5丁目の町並み |
児島田の口5丁目の町並み |
児島田の口5丁目の町並み |
児島田の口5丁目の町並み |
児島田の口5丁目の町並み |