倉敷市玉島柏島は倉敷市街の南西部、高梁川の河口の西、乙島と隣接する小島であったが、江戸時代初期の干拓によって陸繋化したところ。 江戸期は毛利氏の支配を経て、慶長5年(1600)幕府領、元和3年(1617)から松山藩領。元禄6年(1693)松山藩主水谷氏改易を契機に、新開地を東組、それ以外を西組と二分した。「天保郷帳」では柏島として村高1,693石余とあり、「備中至宝記」「備中村鑑」でも柏島の村名がみえる。 尚、東西両組を合わせた家数・人数は文化3年(1806)512・2,333、慶応3年(1867)514・2,372とある。 松山藩の外港として発展した玉島湊・「高瀬通し」・「干拓のための大堤防」などについては、倉敷市玉島の解説を見て頂くとして、大堤防が築かれ、堤防上に問屋が誘致され新町が誕生した。この時期には、この柏島の天満地区にも問屋が誕生していて、元禄年間(1688〜1703)にはほぼ玉島港町の骨格が出来上がった。最盛期の新町の問屋は43軒と言われているが、この玉島にはその半数の問屋が居たものと思われる。 港から出た商品は高瀬舟で運ばれてきた米・茶・薪や新田で栽培された綿やその肥料となる干鰯などであった。特に玉島繁栄の源は新田で栽培された綿で、備中綿と云われていた。その玉島の繁栄の最盛期は元禄時代で、その後は港に土砂が流入し大型船の入港が難しくなり、藤戸・天城辺りの新興繰綿問屋の隆盛や支配関係の複雑さから港の浚渫も進まず、それ以後千石船の入港が無くなり衰退の一途をたどった。 今、高梁川河口右岸、道口川下流右岸に位置する柏島天満地区には 、勇崎や黒崎に向かう街道筋に虫籠窓を備えた重厚な商家建物や白漆喰塗り込めの土蔵が連なる地域がある。新町筋の問屋や仲買町の問屋と同じように推移したと思われ、玉島湊の繁栄と共に栄えていたのだろう。 新町筋の問屋街の直線的な町並に対して、地形に沿って曲がる街道に建ち並ぶ町並である。 ナマコ壁の土蔵、白漆喰塗り込めの虫籠窓、本瓦葺の重厚な建物などが、かっての繁栄時代を彷彿とさせる町並が残っていた。 岡山県の地名 平凡社 下中直也 1988年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 岡山町並み紀行 山陽新聞社 富阪 晃 1999年 |
玉島柏島の町並 |
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