この地は江戸時代には、下村といい讃岐金毘羅参詣・四国遍路・瑜伽(由加)山参詣のための渡し場として栄え、塩業・綿作も盛んな地であった。 江戸時代は岡山藩領で天城陣屋の家老池田氏知行所。享保6年(1721)では家数121・人数838とある。家数・人数は元文〜明和2年(1736〜65)が162・1,081。寛政10年(1798)200・1,178。文化10年(1813)の「岡山藩領手鑑」によると213・1,230とある。 金毘羅詣・四国遍路と瑜伽詣の要港で、文政元年(1818)に渡海職8人、天保3年(1832)には讃岐への渡海職33人がいて、天保13年(1842)には東隣村の田之口村との間で旅人乗務について争論が起こっている。「金毘羅参詣名所図会」に讃岐の丸亀へは夜ごとに出帆し、船着き場は賑やかで、磯辺は塩浜で数町の間に塩屋の煙が立ち昇っているとある。新田開発によって綿作も活発で天保14年(1843)には有力織り元4軒が出て、大坂・九州まで販路を伸ばしていた。 今、古い町並は国道430号線の一本山側の道(かっての海岸沿いの道)の両側に展開していた。ナマコ壁の土蔵、本瓦葺きで切り妻造り・入母屋造りの伝統的様式の商家建物、漆喰塗り込めの虫籠窓を残した家屋、平屋建て・中2階建て・2階建て入り混じった町並、千本格子を残した家もあった。 岡山県の歴史散歩 山川出版社 岡山県高等学校教育研究会 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 |
児島下の町9丁目の町並み |
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