倉敷市藤戸町天城の町並 
藤戸町天城
地図


藤戸町天城の町並(旧武家屋敷辺り)
  藤戸町は倉敷の中心部美観地区から南東部に位置し、倉敷川によって藤戸町藤戸と天城に分けられている。
児島がかって本土と切り離れて海であった頃、児島の藤戸と広田島の天城の間が狭く潮流が早く波立つさまが、藤の花のようであったから名づけられた。
謡曲「藤戸」に謡われている藤戸源平合戦は藤戸から粒江にかけた一帯で、佐々木盛綱が先陣した地は藤戸の西の粒江である。中世には当地は瀬戸内海航路の要衝で寄港地の一つであった。
宇喜多氏・小早川氏の支配を経て、慶長8年から岡山藩領。元和元年(1615)の一国一城令により、下津井城が廃城となったため、3万2千石を領する家老池田由成が寛永16年(1639)に当地天城の広田山北西部の台地桜山に陣屋を構え、御茶屋と呼ばれる陣屋を中心に町づくりを行った。
天城陣屋絵図によると、陣屋の南に家老などの武家屋敷38軒を並べ、その西側に海禅寺など4寺と足軽小頭屋敷が並んでいた。武家屋敷の南西には木戸があり、町家と接していた。言い換えれば桜山の南西部が町家があった。
寛永19年(1642)には岡山藩より在町に指定され、居商が公認された。享保6年(1721)の「備陽記」には町並として天城町・上之町・下之町が記され、家数115軒・人数733人、町家142軒・同人数726人である。
文化年間(1804〜18)の「岡山藩領手鑑」によると町分家数119軒・同人数489人、村分家数150軒・同人数658である。
武家屋敷・町人町をもつ陣屋町として発展した天城は、典型的な陣屋町であったが、次第に宿場町・港町的性格を持ってきた。岡山城下から下津井港に通じる金毘羅往来に沿っており、倉敷川にも面していたことから、文化・文政年間(1804〜30)には。天城・藤戸の両川湊には、海船など他国船が続々と入船した。天城村塩屋市郎左衛門・郡屋金兵衛、藤戸村和気屋五兵衛らは居商から繰綿問屋に転じ、備前・備中各地から繰綿を集荷するとともに、金肥の干鰯などを仕入れて販売し隆盛を極めた。
しかし交通機関の発達に伴い倉敷川の川湊も機能を失い、立地条件にも恵まれず商業活動は停滞していった。
今町並は陣屋町時代の武家屋敷辺りには白漆喰塗り込め中2階建ての建物が、かっての町屋辺りには切り妻造りの中2階建てで、虫籠窓を持った古い商家の建物が残り、往時の面影を色濃く今に伝えている。
今、藤戸と天城を繋ぐ橋は盛綱橋と新盛綱橋で、盛綱橋の上には佐々木盛綱の浅瀬を馬で渡って平家を攻めたときの像が立てられていた。
町並指数  60
参考文献
  岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等学校教育研究会  1991
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989
  岡山県の地名  平凡社  下中直也  1988

これらの商家の建物もかっては本瓦葺きだった
のでしょう
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