坪井宿は江戸時代、出雲街道の宿場町である。出雲街道は播磨側から土居宿・勝間田宿・津山・坪井宿・久世宿・高田宿(勝山宿)・美甘宿・新庄宿と続き伯耆国(鳥取県)へと入る。美作七宿というが、津山は城下町であったので、宿場町でもあったが、七宿には入っていない。 津山から西に3里半(14km)のところにあり、道路の中央に用水路が引きこまれ、それに沿って並木も植えられた、典型的な宿場町であった。 この辺りの美作の宿は、宇喜多氏・小早川氏の支配を経て、慶長8年(1603)津山藩森氏の領地となった。元禄11年(1698)森氏の改易によって幕府領となったが、その後この地域は複雑な支配関係を繰り返す。当坪井下村は明暦元年(1655)坪井村が坪井上村と坪井下村に分村されたもので、幕府領の後、元禄15年(1702)上野安中藩領、寛延2年(1749)からは三河挙母藩領となっている。 一時幕府領になったときは代官所が宿場内に置かれ、その後は内藤氏の陣屋(藩の出張所)も置かれていたので、宿場町としてだけでなく、政治や経済の中心としても栄えた。 坪井がいつ頃から宿場としての役割を持っていたかは定かでないが、本格的に整備が行われたのは、森忠政が慶長8年(1603)津山に入って、参勤交替の道として整備した頃から、坪井宿の町並ができたようで、寛永元年(1624)には坪井宿で日用品の販売が許可になっている。 かっての宿場町は、七森川から引いた水が道路の中央を流れ、流れの南北にそれぞれ2間(約3.6m)の道路があった。北側の道路は出雲街道で多くの旅篭や家屋が並んでいた。そして南側の道路は里道で一般の道路であった。そして水路のほとりには柳の並木が植えられ、今町中にある常夜灯もかってはこの水路の傍で灯りを点していた。 町並をあるくと、宿内は大変広い道路になっている。宿場当時利用されていた道路中央の用水路が、大正末期に道路南側に移動されたため、用水路と並木の部分がそのまま道路になったために広いのである。建物の殆どは明治から大正時代に建てられた建物だが、中には中2階建ての江戸期と思われる建物も存在している。町中に安政2年(1855)建立の金毘羅宮の常夜灯も健在であった。 また、漆喰塗り込めの虫籠窓・袖壁・格子を備えてた伝統的な商家の建物もあった。また煙だし・本瓦葺きの商家の建物もあり、古い町並としては一通り揃っているのだが、町並の良さを地元民が感じておられないらしく、坪井宿の説明看板一枚のみで、個別の説明の看板や表示は一切なかった。 岡山県の歴史散歩 山川出版社 岡山県高等学校教育研究会 1991年 中国地方のまち並み 山陽新聞社 中国地方まち並み研究会 1999年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |