久米南町下弓削の町並み  
下弓削
地図


下弓削の町並み
 下弓削は吉備高原の東部、旭川の支流誕生寺川に沿ったところで、津山城下と岡山城下を結ぶ津山往来が南北に通り、交通の要衝として宿場町を形成していた。
江戸期は宇喜多氏、小早川氏の支配を経て、慶長8年(1603)津山藩領、元禄10年(1697)幕府領、元禄14年(1701)甲斐甲府藩領、宝永6年(1709)幕府領、宝暦13年(1763)からは下総国古河藩領で明治を迎える。
古くからの交通の要衝で、町場が形成されていて、下総国古河藩領の所領になると、陣屋が置かれ政治・経済の中心地となった。
「作陽誌」(元禄4年成立の地誌)では、家数116・人数671であった。江戸末期には与野屋が郷宿を勤めたが、それ以前は角屋・益屋(枡屋)・亀屋の三軒が郷宿を勤めていたいい、いずれも商家と見られる。
文化6年(1809)の商人申合事には、角屋・益屋・の他、山手屋・和泉屋・糀屋など27軒の下弓削商家の名前が見え、雑穀・生綿の相場について会所に届け出ることなどを申し合わせている。
和泉屋は旅籠、山手屋は造り酒屋で当地の名産品の焼酎を造っていたようだ。
万延元年(1860)の屋号付には、商家以外も含めて家数82とあり、鍛冶屋・塩屋・紺屋・魚屋などが見られ、この地方の在郷町・商業地として多くの商家が存在していたようだ。
国道53号線は旧津山街道の西側を通り、町並みは保存された状態で、町割りや枡形も残り中2階建てや2階建て、切り妻造り平入りの商家の建物が各所に残っている。中には入り母屋造りの重厚な建物が街道筋を威圧するように建てられていた。
伝統的な建物は江戸末期から明治時代に建てられたようで、比較的新しい建物と入り混じりながら調和のとれた落ち着いた町並みを作り出していた。
町並み指数 50
参考文献    
  岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等学校教育研究会  1991年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年

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