江府町下蚊屋(さがりかや)は、大山の南西山麓、伯耆・美作(鳥取県・岡山県)の国境にある山間の村。日野川の支流俣野川上流にある支流の本谷川沿いに位置する。郷原宿から延助宿と続く大山往来は更に下蚊屋から御机村へと続く。 江戸期は鳥取藩領。村高は「元禄郷帳」6石余、「天保郷帳」7石余、「元治郷村帳」「旧高旧領」ともに7石余。家数は元文2年(1737)村分帳20戸余、「伯耆志」24戸・人数113人。「文久3年組合帳23戸。明治12年の家数29・人数128、牛36・馬8。明治24年家数27・人数195。 下蚊屋は木地師の存在した村として知られ、滋賀県永源寺町筒井神社蔵の氏子狩帳には、伯耆の「下萱木地屋」として木地師戸主19人の名が見え、戸主に抱えられた木地師人数は84人で、その後も木地師の存在が知られる。 明治初年までは木地師集落であったが、安価な瀬戸物(陶磁器)の普及により、農業への転換を迫られた。そして明治19年に下蚊屋の木地師大岩八郎治は本谷川から山王井手を開削、村内山王原に新田13町歩を開き、これにより木地師集落から農村集落に変身したと云われている。 大山牛馬市が享保11年(1726)に開かれ、大山信仰が普及し大山往来が賑わい、当地も下蚊屋宿(旅籠・博労宿)とし、大山詣での旅人や大山牛馬市の博労達の往来で賑わい繁栄した。その結果当地の婚姻・経済圏は主として美作からの影響が強かった。享保4年(1719)抜荷改所が置かれ、慶応元年1865)には木戸が設置された。 今、下蚊屋集落は30戸余だろうか、静かな山村集落の表情を見せている。木地師集落から農村集落へと変身したのは明治中期、町並にはそれ以後の宿場町の名残と思われる大型の家屋が多い。平入切妻造り、中2階建て・2階建ての家屋だが中には漆喰塗り込めで虫籠窓を備えた家屋も残っていた。緩い勾配の道の端には清水が流れる小川があり、今でも洗い物には利用されている様子だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 鳥取県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1992年 |
江府町下蚊屋の町並 |
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