江府町江尾は大山の南西、日野川中流域右岸で、船谷川が日野川に合流する辺りに形成された町場。 江戸期は江尾宿ともいい鳥取藩領。村高は「元禄郷村帳」429石余、「天保郷帳」450石余、「元治郷村帳」538石余、「旧高旧領」582石余。家数は元文2年村分帳」160戸余、「伯耆志」では家数147戸・人数527人、「文久3年組合帳」121戸。 米子と美作を繋ぐ日野往来が通る宿場町。寛永14年(1637)には既に宿駅として機能していて、幕末まで宿駅の機能を果たした。また日野往来から分岐して東北の宮市村を通り助沢村から内海乢(内海峠)を超えて延助宿に至る道、日野往来から分岐して小江尾川沿いを遡上し大山往来に出る道などがあり、交通の要衝、物資輸送ので要路であった。 安政年間(1854〜60)頃、米子から美作への物資は木綿・海産物、美作から米子へは煙草・椀などの木地物であった。市が7月7日・12日、12月22日・24日の年4回開かれ、在町としても賑わった。 町は戦国期の江美城の城下に町場が形成されたもので、幕末の六群郷村生高竈付では家数116、「伯耆志」では家数147・人数527とある。 古い町並は旧日野往来に沿ってと、それに直角に交わり宮市から内海峠を越え延助へと向かう道筋に展開している。特に後者の町並には造り酒屋さんも健在で町並み景観に大きく寄与していた。漆喰塗り込めの虫籠窓だったと思われる窓を持つ家もあり、赤褐色瓦と相まって古い町並を展開していた。 旧日野往来沿いの町並は道幅も広く商店街として機能したので、建て替えられた家が多く伝統的な建て方の家屋が少ないが、赤褐色の瓦を乗せた古い形式の家も多くみられる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 鳥取県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1992年 |
江尾の内海峠へ向かう町並 |
江尾の内海峠へ向かう町並 |
江尾の内海峠へ向かう町並 |
江尾の内海峠へ向かう町並 |
江尾の内海峠へ向かう町並 |
江尾の内海峠へ向かう町並 |
江尾の日野往来の町並 |
江尾の日野往来の町並 |
江尾の日野往来の町並 |
江尾の日野往来の町並 |