琴浦町八橋の町並み
八橋
地図


八橋の町並
 八橋は中世八橋城築城から始まり、江戸期の自分手政治の地であり、山陰道(伯耆街道)が通り、八橋往来の分岐点の宿駅として栄えた所である。
八橋には戦国期に城が築かれていて、伯耆・因幡の政治・軍事上の重要拠点として、。戦国期以後その争奪をめぐる激しい戦いが繰り返された。守護山名氏から尼子氏、そして毛利氏へと移り、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いののち、中村忠一が米子城主として伯耆へ入り、八橋には中村一栄が入った。中村家断絶後暫くは市橋正勝が八橋にいたが、元和3年(1617)に池田光政が因伯両国を領した。この時に八橋城は一国一城令で廃城となった。そして寛永9年(1632)年池田光仲が藩主となってからは、この地に陣屋を置いて重臣の津田将監元匡の自分手政治が行われた。鳥取藩の自分手政治は藩内の最高格式の数家に対して、その預かり地の町政を委任する制度で、八橋では原則的に町方政治が行われ、幕末まで続いた。
山陰道(伯耆街道)が通っていて、八橋の東部で倉吉に向かう八橋往来が分岐し、江戸時代の早くから宿駅とされ、制札場も置かれていた。
幕府への届けでは菊里村と称していたが、藩内では八橋町と呼んでいたようだ。天保15年(1844)の菊里村岩本村田畑地続全図には街道に沿って細長く、前屋敷・茅町・東町・中町・西町・宮の下町の町並みが続く様子が描かれていて、東町・中町の南には津田氏の陣屋がみえる。
今、古い町並みは海岸線に沿った旧山陰道の両側7〜800mに亘って展開している。大山山麓の肥沃な土地、広大な農地に恵まれ、農業と宿駅を生業としていたようで、海岸に位置した集落だが、港の機能はなく漁村でもなかったようだ。町並みは平入り・妻入りが入り混じっているが、殆どは2階建てであった。板囲いの特徴ある家屋は海岸特有の家屋形態で、中には千本格子を残した家もあり、日本海側の小さな宿場町、在郷町の名残をよく残していて、大きな造り酒屋さんの家屋が町並みに色を添えていた。
町並み指数  40  
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年
  鳥取県の地名  平凡社  平凡社地方資料センター  1992年   


八橋の町並

八橋の町並

八橋の町並

八橋の町並

八橋の町並

八橋の町並

八橋の町並

八橋の町並

八橋の民家

八橋の民家
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