勝山町の町並み 
山本町・上町・中町・下町
地図


造り酒屋辺りの町並み
  勝山は古代には高田郷といい、江戸時代前期までは高田村といった。江戸後期には勝山と称されたが正式に勝山村になったのは明治22年からである。江戸後期からは城下町として栄え、久世に次ぐ物資「たたら鉄と木材」の集散地であった。
高田に延元元年(1336)関東武士の三浦貞宗が入部し、13代二百余年を経て天正4年(1576)滅亡するまで、美作の雄としてこの地を支配した。高田城は、明徳年間(1390〜94)に三浦貞宗が築城したと伝える。
貞宗から数えて10代目の貞久の天文17年(1548)、尼子晴久の将 宇山久信のために落城した。その後、城を取り返したり、落城したりを繰り返し、永録8年(1565)三浦貞広が城を取り返した。天正4年(1576)、毛利・宇喜田の連合軍は高田城を攻め、三浦氏は滅亡した。貞宗から貞広までの約240年間が前期三浦氏の時代である。
関ヶ原の戦い後、森忠政(森蘭丸の弟)が津山に入封し、高田城には城番を置き城下は在郷町として繁栄したが、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。
森氏の支配は長継・長武・長成の四代95年の治世であり、元録10年(1697)の森家の断絶後、松平長矩(宣冨)が津山に入城してこの地を領有し、そして享保12年(1727)幕府領となった。明和元年(1764)、前期三浦氏と同祖の三河西尾藩主三浦明次が入封して勝山藩2万3千石の初代藩主となり、旧高田城跡に新城を築き勝山城と称し、城下町づくりに着手した。
畑地であった高台の旦地区に、土塀を巡らせ長屋門を配した上級武士の武家屋敷と碁盤の目状の路地、茶垣に囲まれた156軒の下級武士の侍屋敷を造った。
今もその名残が碁盤目状の細い路地の姿で残っている。
公開されている武家屋敷館は昔の姿を今に伝える唯一の上級武士の家屋で、渡辺家の家屋であった。渡辺氏は家老格の名門で160石であった。白壁に囲まれた250坪の屋敷に長屋門、主屋、土蔵などがあるが、当時は今の2倍の敷地があったそうだ。格式の中に質素倹約を旨とする当時の武家の生活が偲ばれる。

戦国支配の三浦氏を「前期三浦」。江戸時代の三浦氏を「後期三浦」と区別していて、後期三浦の時代は天下泰平の世。勝山は城下町が完成し、木材とたたら鉄の集散が藩財政を支え大いに繁栄し豪商が生まれた。そして山本町・上町・中町に残る白壁の伝統的な商家の家並みができあがった。
城下町は山本町・上町・中町・下町・中川町・南新町・北新町の7町があった。文政5年(1822)からは旭川右岸の西町が新たに城下に編入され8町になった。この城下8町の家数・人数は、弘化2年(1845)340軒・1171人。安政6年(1859)335軒・1230人であった。
前期三浦の時代の高田の町は、檀の坂口より上橋の間は生付の在郷町で、檀の坂口より下手の町は、江戸時代初期から分家や在郷より集まった人々によって拡大され、発展した町である。慶長8年(1603)森忠政が美作一国を領した時から、元録10年(1697)森家断絶まで95年間は、城下町としての体裁を整えた時期で、出雲街道の宿駅にも指定され参勤交代の大名が通り、高田には本陣などの宿駅機能があった。
本陣を豪商 金田氏が勤め、脇本陣は田中氏等であったようだ。
勝山の伝統的な商家は、切り妻造り、中2階建か2階建、平入り、黒の石州瓦(桟瓦)葺、白漆喰壁で中には本卯建をあげた家もあった。
郷土資料館は町並み保存地区の中央部旧出雲街道沿いにあり、郷土資料館横の旭川には高瀬船の発着場があって、丸い川石を敷き詰めた石畳の荷揚げ場があった。
産物の輸送は全て川を利用して勝山から岡山まで、この地方の産物を積み、帰りは塩・日用雑貨品を積んで運んでいた。旭川では勝山が最上流の舟着場で、町裏から川沿いの石畳が往時を偲ばせる。県下でこれだけ完全に残っているところは他にない。
町並み指数 50
参考文献    
  岡山町並み紀行  山陽新聞社  富坂 晃  1999年
  岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等学校教育研究会  1991年
  勝山町史  勝山町  勝山町史編纂委員会
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年
  中国地方のまち並み  中国新聞社  日本建築学会中国支部  1999年

町並み

高瀬船の船付き場

町並み

町並み

武家屋敷館

造り酒屋
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