明治22年に金浦村が成立するまでは、この地は西浜村で「ヨウスナむら」と発音していた。 寛永備中国絵図では笠岡村西隣に西浜村がある。 元和5年(1619)より元禄11年(1698)までは備後福山藩領で後幕府領となり幕末に至る。福山藩時代には、加子浦に指定され、笠岡湊の番所も置かれていた。延宝3年(1675)には加子役58人・船数47であった。 漁業中心の浦方で、元禄14年には16石9斗余りの海役年貢を納め、漁場は「東は三郎島より北木島布越見通し、西は備後国鞆津沖泉水島まで、東西5里南北4里余りの間であった。また、正徳3年(1713)の口上覚によれば、西浜村と真鍋島の両浦で海役米20石余りを上納、「往古より猟場之義ハ西浜村・真鍋島猟師共自由に魚漁し、他村より猥ニ入込猟場を妨不申」で独占的であった。 寛文年間(1661〜73)以来家数は40軒余りであったが、元禄12年(1699)には23軒が衰弱し、海年貢納入者は20軒になっている。また、18世紀に入ると他村からの入漁もあって、漁場占有の優位性は失われ、漁場争論も多発した。 正徳5年(1715)より他浦も海役米を上納して漁業権を獲得し、漁場の独占が崩れていった。 漁業の他に船稼ぎも行っており、元禄12年(1699)には大坂廻米役を勤めたり、木綿運上銀を上納したりしている。 今 町並みを歩くと、吉田川が流れている、干拓以前はこの西浜村まで海が来ていて、ここは入江であったのだろう。この吉田川の東側に古い町並みが展開する。入り母屋造りと切り妻造りが混じりあい、平入りと妻入りも混合した町並みで、統一性はないが、伝統的な家屋が並び、古い町並みであることが一目で判別できる。 吉田川河口近くに架かる橋のたもとに大きな重厚な商家の建物がある。本瓦葺の入り母屋造りの家で、土蔵群も多く備わり、主屋は一階も2階部分も格子がきれいに整っていた。 岡山県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1988年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 |
金浦の町並み |
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