真鍋島は笠岡港の南約18kmの瀬戸内に浮かぶ笠岡諸島の島で、海を隔てて南は讃岐国に接している。 毛利氏の支配を経て、慶長5年(1600)幕府領、元和5年(1619)から備後福山藩領、元禄11年(1698)幕府領となり明治を向かえている。 漁業を中心とした浦方で、福山藩時代には水主浦に指定され、水主役を負担して漁場を確保していた。後に幕府領となり海役米を上納して漁業権を保持していた。 元和2年(1616)には家数43・船数13で、元禄9年(1696)には家数115・人数643・船数55とある。 北木島と真鍋島近辺は好漁場であり、各浦との漁場争いが頻発していた。宝永期(1704〜11)にも漁場を巡って紛争が起こり、操業船数が定められた。北木島37・白石島25・真鍋島85と定められ、漁業中心の真鍋島にとっては大変な痛手になって、以後漁業不振が続いていた。しかし江戸末期から明治にかけて新しい漁法が開発され、明治に入って漁業不振から脱却でき、真鍋島の漁業最盛期を迎えた。 ほぼ一年を通じて漁を行い、3〜5月は鯛網、6〜9月は底引網、8〜10月は鰯網、10〜2月はナマコ網を操業していた。 漁獲物の取引先は、12世紀にはすでに京より商人が来て海産物の商いをしている。寛文5年(1665)には泉州との取引をしていて、延宝〜元禄頃(1673〜1704)には江戸市場と直接取引しているなど広範囲にわたった。 昭和53年には、古い漁村の形態を残す島として、岡山県のふるさと村に指定され、観光に力が入れられている。集落内は漁村特有の細い道の両側にびっしりと家が並ぶ。 板囲いの家が続くなかナマコ壁・船板塀・本瓦葺きの家屋が散見でき、懐かしい漁村風景が展開する。港には石垣の防波堤も健在で歴史を感じさせてくれる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989 岡山県の地名 平凡社 下中直也 1988年 |
真鍋島本浦の町並み |
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真鍋島本浦の町並み |
真鍋島中学校校舎 |
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