笠岡港の南方約14kmの瀬戸内海に浮かぶ笠岡諸島最大の島。 毛利氏の支配を経て、慶長5年(1600)幕府領、元和5年(1619)備後福山藩領、元禄11年(1698)から幕府領で明治を迎える。備後福山藩領時代は水主浦で、延宝3年(1675)の夫役人数32・船数9であり、幕府領となってからは、海役料と呼ばれる年貢を上納していた。 北木島から真鍋島にかけての海域は良好な漁場で、江戸中期からは特に鰯漁が盛んとなった。獲れた鰯は肥料の干鰯にして綿作に使用された。また北木島など痩せた土地の島にとっては生産性を上げる重要な肥料であった。 そのため各浦漁村は鰯漁に力を注ぎ、漁場をめぐっては度々論争が発生している。 天保4年(1833)の家数311・漁師人数255・漁船85とある。 また、北木島や周辺の諸島は石材の産地として知られ、大阪城の築城にあたって、石垣用として運び出されたのは有名です。この島で産する石は花崗岩で北木石と呼ばれている。明治期になって採掘と販売が盛んになり、建築用材として利用されていたが、現在は墓石用に利用されていて、石材産地は島の北西岸の金風呂・豊浦に分布している 今回訪ねたのは大浦集落で漁業集落だった。集落内を歩くと、漁業集落だったのはハッキリと判る。路地と思えるような細い道が集落内を縦横に通っている。軽自動車も通れない細い道を、お年寄りがバイクや自転車で通られている。 大変な過疎地域で港近くには旅館も、郵便局も、マーケットもあったが、港から少し外れると、集落内と云えども、空家になった家が多く人が住んでいるのは3割にも満たないと地元の方が話された。 空家になっていても、台所用品などは並んでいるし、生活されているような状態です。話をしたおばさんは、かってはここに住んでいたが今は笠岡市街に住んでいる。正月に子どもや孫達がこの島に帰ってくるので、その準備にこの島に帰って受け入れ準備をしているとの話、でも日帰りで夜には帰るとのこと。大きくて綺麗な家でとても人が住んでいないとは思えない家だったが、正月が済めば又空家になるとの話だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989 岡山県の地名 平凡社 下中直也 1988年 |
北木島町大浦の町並み |
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北木島町大浦の町並み |
北木島町大浦の民家 |
北木島町大浦の町並み |
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北木島町大浦の町並み |
北木島町大浦の旅館 |