笠岡市笠岡の町並 
笠岡
地図


笠岡の町並み
 笠岡は古くから湊として栄え、蔵米・綿・畳表の積み出し港として賑わいを見せ、代官所も設置され、西備地区の商業・政治・交通の中核であった。
江戸時代は毛利氏の支配を経て、慶長5年(1600)幕府領、元和3年(1617)松山藩領、元和5年(1619)備後福山藩領、元禄11年(1698)から幕府領となり明治を迎える。
笠岡は瀬戸内の主要航路から外れていたが、福山藩領となってからは湊の整備も進み、村内には町場も形成された。寛文11年(1671)の記録では、家数383とあり檜物屋・大工・鍛冶屋・紺屋・桶屋・畳屋などの職業が見られる。
しかし、明暦(1655〜58)になり米や諸産物は高梁川の高瀬舟によって玉島湊に積出されるようになると、笠岡の湊は衰微していった。
元禄11年(1698)幕府領となり代官所が現在の笠岡小学校辺りに設けられると、備中の諸物資が集まり活況を取り戻した。以後も湊の衰微がそのまま町の盛衰となって表れ、玉島湊との競合に終始したまま明治維新を向かえた。
今回訪ねたのはJR笠岡駅の北側の東側の商店街、JR山陽本線で笠岡駅を岡山方面に出て直ぐに線路近くに土蔵群が見える表側の商店街です。かっての鴨方往還の終着点に位置する場所です。
小田・後月両郡の廻米・綿・畳表などの積出し港として賑わいを見せ、浜会所も設置されていた場所である。今ではJR山陽本線の北側になっているが、かってはこの近くまで海岸が迫り、湊の機能があった場所です。
当時の面影を残す町並みがアーケード・看板で覆われて悲鳴をあげている。平入り・切り妻造り・中2階建て・漆喰塗込めの虫籠窓・ナマコ壁を備えた重厚な商家建物が連なるが、アーケードに覆われ、その上看板で隠されていて、なかなか立派な建物全体が見えない。写真は看板の揚がっていない建物を探しての撮影だった。
町並指数  30
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989
  岡山県の地名  平凡社  下中直也  1988年

笠岡の町並み

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