田後村(たじり)は風光明媚な浦富海岸の東端に位置する漁業集落である。 領主関係は網代村と同じで、関ヶ原の戦い後、池田長吉領、元和3年(1617)に池田光政領となり、寛永9年(1632)池田光仲との国替えを経て幕末まで鳥取藩領。町浦富には鳥取藩家老鵜殿氏の陣屋がおかれ、天保13年(1842)から明治2年まで自分手政治が行われた。 毎年3月頃から10月初旬頃まで小屋掛けをして漁をしていた、石見国の漁師が、文禄年間(1592〜96)に移住して村が形成されたと伝える。これは同じ石見国の漁師が網代に移住するよりも約30年も以前だ。江戸時代初期には浦富村の支村で一村として認められている。 享保19年(1734)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」に一村として記載され、家数84とある。「因幡志」によれば家数200で、タイ・イカ・ツノジ・マス・アワビ・サザエ・ホシダラ等があると記載されている。住民の殆どが漁業に従事し、同時に魚類の販売に関係したほか、一部の者は海運業を営んだ。 漁業はタイの延縄漁やシイラ漁などの沖漁が中心であったが、享保(1716〜36)頃まではツノジ漁も盛んで灯油用のツノジ油の製造が行われていた。 明治10年に正式に浦富村から分立し田後村となる。明治12年の家数203・人数1,121・船97とある。 今、集落内をあるくと、密集した漁業集落である。集落内を一本の道が通りぬけている。この道は比較的広く2トン積みトラックでも通れそうだが、それ以外は道らしいものは無い。でも集落の広がりがある。漁港に車を置いて集落の一番奥まで行ったが、広がっている集落に入れない。 何のことない、家と家の間の細い通路を中に入るのだ。よその家の裏庭に出そうで遠慮していたが、その路地みたいな道が正式な通路だ。 漁師町特有の板囲いの家がぎっちりと密集して建っている。細い通路だと思い進むと一軒の家の玄関だったりする。そんな細い通路に沿って郵便局があったのには驚いた。 家の中での会話が、3軒ほど離れた所まで聞こえてくる。最近よく話題になるプライバシーなどどこ吹く風である。 この集落では無住の家が少ないように思えたが、漁業集落全体での何かの潤いがあるのだろう。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 鳥取県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1992年 |
田後の町並 |
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