井原市高屋町は岡山県と広島県の県境の町で、かって山陽道の宿駅高屋宿の置かれたところである。大坂から数えて20番目、備中国最西端に位置し、東の七日市宿より一里12町、西の備後国神辺宿まで一里27町。この高屋宿は古来は石見銀山御用引継駅(備中国笠岡〜石見国大森)であった。宿駅の整備は元禄年間(1688〜1704)頃に行われ、山陽道継場宿となった。 常備伝馬人足は15人・20疋で、隣宿場の七日市宿(25人・25疋)より少なかった。 享和2年(1802)にここを通った菱屋平七の「筑紫紀行」によれば人家は200軒程、商家・茶屋・宿屋ありと記載されている。 毛利氏の支配を経て、はじめ幕府領。元和5年(1619)から元禄11年(1698)までは福山藩領。翌12年からは幕府領であった。元禄10年(1697)の郷帳惣辻では田・畠に木綿の作付けが見られ、その後の地場産業の繊維業の片鱗を見せている。 元禄14年(1701)の辻記録控によれば、高屋村は家数120軒で、明治22年には大字が編成されず、戸数523軒・人数2,850人であった。 今 町並みを歩くと、入り母屋造り又は切り妻造り平入り、中2階建て又は2階建て白漆喰塗り込めの虫籠窓を持つ伝統的な家屋を多く見ることができる。それらの商家の建物の大部分も今では桟瓦葺になっているが、かっては本瓦葺だった。 町並みの中で、目だって大きく重厚な商家の建物は大塚家の建物である。むくり屋根の大屋根部分のみ入り母屋造りでその下は切り妻形式、2階建て、本瓦葺、白漆喰塗り込め、白漆喰の妻側はナマコ壁がアクセントとして取り入れられていた。見た感じの建築年代は明治の中期頃と思う。 この高屋宿の町並みも、街道としての機能が無くなってから久しいのに、近くの矢掛宿同様伝統的な家屋が連続した町並みであった。何時までも残したい町並みである。 今、この高屋町では「まちおこし推進協議会」を結成して、町並み保存と「中国地方の子守唄」の里として売り出しに努力されていた。 岡山県の歴史散歩 山川出版社 岡山県高等学校教育研究会 1991年 岡山県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1988年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 |
高屋の町並み |
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