井原市井原町の町並 
井原町
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井原町の町並み
 岡山県の南西部の井原盆地に位置し、交通の要衝であったので中世から諸勢力抗争の場となっていた。
江戸時代に長崎と江戸を結ぶ大動脈である山陽道が井原村の南の上出部村をとおり、七日市宿が置かれていた。
毛利氏の支配を経て、慶長19年(1614)松山藩領、寛永19年(1642)から旗本池田氏領になった、明暦2年(1656)に一部を分家領として分けたが幕末に至るまでそのまま推移した。陣屋は中町の西、現在の井原小学校の敷地にあった。
元文5年(1740)の村絵図によれば、家数269からなる街筋があり、江戸初期に本町が成立し、次いで中町・新町・下町と小田川沿いに街筋ができていった。
池田氏の陣屋町として、またこの地方の在郷町として発展していったものである。
近くを通る山陽道に七日市宿があったが、この宿は在郷町として発展せず、年不詳の宿見取図によると本陣1・脇本陣3、家数100軒余り、旅籠約80軒とあるが、享和2年(1802)に七日市宿を訪れた菱屋平七の「筑紫紀行」では「町屋六七十軒、農家計にて茶屋宿屋なし。」とあり、宿場としても小規模なものだったようだ。
さて、話を井原村に戻すと、宝暦(1751〜64)末頃の「中国行程記」には町の東側を笠岡往来が南北に走り、松山(現高梁市)や伯州、高山(現川上郡)へ通じ、町屋数は約400軒、月の市が立つと記されていて、在郷町として発展していた。
今、古い町並みは国道313号線の一本西側の道に展開している。旧中町の井原市立図書館辺りから北500m・南500m位に展開していた。この町並みは安政3年(1856)の大火で全て焼かれた後の建築ですから、古い伝統的な様式の家屋は防火対策で漆喰塗込めの建物になっていた。妻入り・平入り・切り妻・入母屋造り・本瓦葺・桟瓦葺・大きな袖卯建の家、虫籠窓もいろんな意匠があり、煙だしを残した家もあり、バラエティある古い町並みを形成しているが、連続して展開している所が少なかったが、なかなか見ごたえのある町並みであった。
町並指数  40
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989
  岡山県の地名  平凡社  下中直也  1988年

井原町の町並み

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