北栄町由良宿の町並み
由良宿
地図


由良宿の町並
 戦国時代の由良には「すくも城」が築かれていたが、天正13年(1585)当地は羽衣石城(現湯梨浜町 旧東郷町)城主南条元続の支配下に置かれた。関ヶ原の戦い後は中村忠一領となったが、中村家断絶したため、八橋城に入った市橋長勝領となる。元和3年(1617)には池田光政領となり、寛永9年(1632)池田光仲との国替を経て以後、鳥取藩領として幕末を迎える。
江戸期には山陰道(伯耆街道)が東西に通り、伯耆街道より八橋で分岐して倉吉に向かう八橋往来も通る交通の要衝であり、享保17年(1732)から宿駅に指定された。
由良が大きく発展したのは享保4年(1719)に由良宿内に藩蔵が建設されたことによる。藩主池田氏は由良が水陸交通の要地であることに着目し、由良川左岸の微高地(現JR由良駅北方の海岸まで400m程のところ)に年貢米2200俵格納可能な13棟もの藩蔵を建築した。藩蔵は東西50間・南北34間という大きなもので、これにより由良は港町・宿場町として大きく発展するのである。藩蔵は明治4年まで約160年間も使用された。
伯耆街道を荷車が通れる広さに拡張整備し、藩蔵周辺の道路も整備して問屋や住民の移住を促し、蔵役人も移り住んできた。
寛永9年(1632)家数21・人数146、元文2年(1737)村分帳では家数90余り、明和4年(1767)家数144、天保11年(1840)240、文久3年(1863)組合帳では243戸となり、江戸時代を通じて港町・宿場町として賑わっていた。
藩蔵正面から伸びる広い道を本町通りとし、そこに御蔵役人や米問屋が軒を並べ、年貢米の廻船業者も集住して在町の発達を促した。
そして天保初期から由良川水路開削が行われ、川船の運航を便利にし、藩蔵の所在地と宿駅であることも相まって、各地の物産の集散地となり在郷町としても賑わいを見せ、鍛冶屋・紺屋・米屋・運送屋などもいた。
今、古い町並みは旧山陰道(伯耆街道)に沿った町並みと、藩蔵の南側に位置した辺りに展開する。街道沿いの町並みは平入り切り妻造り2階建ての家屋が多く、板貼りが基本の外装のようだが、中には漆喰塗込めの家屋や千本格子を残した家も見られた。
一方集落内の家屋は、農家の豪邸と思えるような家屋で、道に面することなく主屋が建てられていた。この集落内の道路は規則正しく碁盤目のようなのは、藩蔵前に計画的に造られた町並みだった名残と思われる。
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参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年
  鳥取県の地名  平凡社  平凡社地方資料センター  1992年   


由良宿の町並

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由良宿の町並

由良宿の町並

由良宿の町並

由良宿の町並

由良宿の民家

由良宿の町並
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