下中津井村・下砦部村とも高梁から多和山峠を越え落合を結ぶ落合往来に沿った町場であり、下砦部村からは伯雲往来が分岐していた。伯雲往来とは多和山峠を越えて下砦部村を経て、小坂部川に沿って小坂部を通り、伯耆に向かう往来を言う。 下中津井村は元和3年(1617)から元禄6年(1693)まで松山藩池田氏領から水谷氏領であった、同家断絶のため幕府領となり、元禄8年(1695)から松山藩池田氏領、その後松山藩石川氏領となるが、同氏は延享元年(1744)伊勢亀山へ転封となり、当地は亀山藩石川氏領となり、同年陣屋が設置され、中心部は町場化し、市も立って賑わった。 陣屋町の機能の他に物資集散地としての機能も備わり在郷町としても賑わった。元禄13年(1700)の記録によると、7月5日の莚(むしろ)市、12月15日の鯛市、12月25日の鰤市があり、中でも鰤市は周辺の村々でも開かれる連鎖市として特に賑わいを見せた。 弘化〜嘉永期(1844〜54)には刻みタバコの製造家が町中に30戸ほどあり、大坂・備後・四国・九州方面にまで販売されていたようだ。町家(商人)も62軒ほどありかなり繁栄していたようだが、明治初年陣屋の廃止により、人々の往来が少なくなり町は次第に衰退していった。 下砦部村は領主関係は下中津井村と同じ松山藩領水谷氏領だったが、水谷氏断絶後幕府領となった後、享保14年(1729)まで遠州浜松藩領。以後享保19年(1734)まで幕府領、翌年から元文5年(1740)まで大坂城代太田領となり、同氏の陣屋が設置された。その後再び幕府領となり幕末に至る。 下中津井が衰退していった反対に、下砦部村は交通の要衝ということもあり、この地方の政治・経済の中心地として賑わいを見せ、今では北房町の中心地として町の行政・商業の中心地である。 下中津井・下砦部ともに伝統的な家屋は数少なくなり、建替えや改修が進んでいるが、伝統的な中2階建て、切り妻造り平入りの商家の建物も点在していた。落合町や勝山町に多かった2階の下部のナマコ壁の家屋はここまで来ると少なくなっていた。 岡山県の歴史散歩 山川出版社 岡山県高等学校教育研究会 1991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 |
下中津井の町並み |
下中津井の町並み |
下中津井の町並み |
下砦部の町並み |
下砦部の町並み |
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