日野川上流左岸に黒坂城下町は位置している。 関ヶ原の戦後の慶長15年(1610)関一政が所領5万石で黒坂に封ぜられ、7年間この地で治政にあたった。城はJR黒坂駅の西裏側の日野高校黒坂分校から少し山側にかけて建設され、城下町はその東側一帯に山を削り沢を埋めて平地とし、南北へ街筋5通り、東西に5通りの町割りを行った。城下町は慶長18年(1613)頃には完了したようである。 その後、池田光政が因幡・伯耆32万石の領主となり鳥取藩が成立した。そして黒坂には重臣池田下総守を配置したが、寛永9年(1632)国替えにより、池田光仲が鳥取藩主となり、黒坂には福田氏を配置して、「自分手政治」という治世を行わせた。だが平素は福田氏は鳥取にいて黒坂には城奉行を駐在させて黒坂陣屋と称した。 黒坂陣屋は関氏時代の城内に置かれ、役所・煙硝倉・門番長屋・侍屋敷・牢屋などで構成されていた。この町には郡町・生山町・中町・黒坂町・榎町・北町・落町・鍛冶町の8町があり、日野郡内の政治的中心地となっていた。また鉄山師や鉄を商う商人等が軒を並べていた。 寛政元年(1789)頃と思われる「黒坂開元記抄」は黒坂の家数1,007軒の町並みと記しているが、実際は延享3年(1746)の巡見使案内手帳によると家数117・人数573とあり、家数は寛政8年(1796)162、「伯耆志」では179、「文久3年組合帳」では160とあるのが妥当と見るべきだろう。 当地は日野往来の宿駅でもあり、すでに寛永14(1637)の記録にも宿駅としての黒坂の名が見えるが、どうも宿の機能は無く、人馬継立てのみを行う「駅」だあったようだ。 今に、城下町当時の町割りがそのまま残っているようだ。南北に造られた5通りが3筋になっている以外はよく残った長方形の町割りと感心せざるを得ない。 赤褐色の瓦と黒の瓦が入り混じった町並みで、切妻造りの平入り、中2階建て・2階建ての家並みが落ち着いた町並みを形成していた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57 鳥取県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1992年 鳥取県の歴史散歩 山川出版社 鳥取県歴史散歩研究会 1994年 |
黒坂の町並み |
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