吉永町加賀美(八塔寺ふるさと村)の町並 
加賀美
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加賀美(八塔寺ふるさと村)の町並
 吉永町の北部、八塔寺山の南麓に開けた八塔寺の集落。八塔寺の寺伝によると、今から約1,200年前の神亀5年聖武天皇の勅願で創建され、十三重塔・七堂伽藍・72僧坊が建てられ、山岳仏教の道場として、盛況を極めたという。以後鎌倉将軍家の祈願所となり、寺一里四方を寺領として認められた。その後、たびたびの兵火にかかり、衰退した時期もあったが、江戸期になり岡山藩主池田忠雄が伽藍を再興し、岡山藩の庇護を受けることとなった。
寛永6年(1629)の寺領割付状によると、定生院(常照院)・明王院・真言院(宝寿院)の三院があり、寺領は36石余であった。しかし寛永10年(1633)に本坊常照院が天台宗に改宗したため、真言宗の他の二院との間で不和論争が続き、文政11年(1828)に岡山藩寺社奉行石黒後藤兵衛によって調停が行われ、明王院・宝寿院は真言宗で恵日山高顕寺と改号し、高野山真言宗として現在に至り、八塔寺は天台宗のままである。
今の吉永町加賀美は明治8年に八塔寺村と下畑村が合併して成立したもので、ここでは八塔寺村について記載する。享保6年(1723)の備陽記によると、家数37軒・人数177人。文化年間(1804〜18)の「岡山藩領手鑑」には家数50・人数205人とあり、檀家は八塔寺常照院10軒・宝寿院10軒・明王院30軒となっている。
昭和30年代から人口の流出が続き、過疎化が急激にすすんだが、八塔寺門前地区の住民の総意で自然を残した観光開発が計画され、昭和49年八塔寺ふるさと村の指定を受けた。
八塔寺ふるさと村は茅葺き屋根の集落として知られ、農村の原風景が展開する。
全国からの訪問客も多いが、観光客を多数呼び込めるまでには発展せず、過疎化の進むなか、無住になっていく家もあり、今後の対策に期待したいものである。
町並指数  50
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989
  岡山県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1988年

加賀美(八塔寺ふるさと村)の民家

加賀美(八塔寺ふるさと村)の民家

加賀美(八塔寺ふるさと村)の民俗資料館

加賀美(八塔寺ふるさと村)の民家

加賀美(八塔寺ふるさと村)の集落

加賀美(八塔寺ふるさと村)の民家

加賀美(八塔寺ふるさと村)の集落

加賀美(八塔寺ふるさと村)の集落
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