玉野市八浜の町並み 
八浜本町
地図


八浜八幡宮鳥居辺りの町並み
 児島湖の最奥部南側に玉野市八浜がある。
今では想像もできないが、当地の中世は児島は島であり、その北側の海が東西に通じており、瀬戸内海航路の重要な港であった。この児島の北側航路は、吉井・旭・高梁川の三川が、上流で行われた製鉄のためのカンナ流しの土砂を運びつづけて、下流部河口に堆積させて、児島の北辺の海を阿知潟と児島湾に分け、児島を陸続きにし、その上干拓も加わり、児島半島を形成してしまった。それにより八浜も瀬戸内の東西航路の港の役割を失ってしまった。
灯心文庫本「兵庫北関入船納帳」の文安2年(1445)の項には年間7回にわたって当地の船が兵庫北関(現神戸港)に入港している。積荷はエビ・米・大麦・小麦や塩などである。
江戸時代に入り、宇喜多氏の支配から小早川の支配に移り、慶長8年(1603)から岡山藩領となる。享保6年(1723)の「備陽記」によると、八浜村は岡山京橋まで陸路9里・海路3里、家数349軒・人数2175人であった。
江戸時代の八浜は、干拓の進行により新たな海上交通の要地となってきた。昔の藤戸海峡は倉敷川となって運河の役割を果たし、川の上流に倉敷という一大商業地が誕生した。早島も畳表の産地であったので、天然の良港八浜も物資の集散はもちろん、多くの船と旅人が港を利用し、港も町も賑わい、商家や旅篭が軒を連ねていた。由加山参りの港町の一つでもあった。
また、八浜は児島湾内の8割方の漁業権を持ち、大漁師のもとで漁業が行われ、漁場を巡り他村としばしば争論を起こしていた。また八浜村は岡山藩から在町に指定され、酒・醤油・アミ漬・海月・海茸などを廻船問屋や船持が八浜港から積出し、富を蓄積していった。
江戸時代の後期になると地場産業も興り、干拓地で生産される綿花によって織物業が盛んにり、東児島における文化・商業・工業の中心地として発展した。
八浜の衰退は、幕末になるとその兆しを見せ始める。日比など児島半島南岸の港が発展するのに比べ、八浜の地位は相対的に下がって行った。回船業の衰退のせいである。
その上、日本の近代化、交通革命の進行が八浜の衰退に拍車をかけた。寒村だった宇野に明治42年、宇野港が完成し、翌年には宇野線が開通した。八浜駅はできたが、町から遠く八浜の町は鉄道沿線から取り残された。
町並みの東側に、二つの峰続きの両児山が見える。その山に八浜八幡宮と八浜城跡がある。町並みは県道と両児山の間で、さして広くない地域である。町並みに入るとともにモロミの香りがあたり一面に漂い醤油醸造されている様子。香りは白壁の伝統的な家屋と土蔵の醤油店からである。赤レンガの煙突が空に突出している。その前の造り酒屋にも赤レンガの煙突が突出しており、二本の赤レンガ煙突は八浜のシンボルのようだ。
八浜の伝統的な商家は、入母屋造り、中二階建て、本瓦葺き、格子窓、白漆喰壁、ナマコ壁のようで、重厚で広大な商家の建物が多く健在であった。
今、玉野市はこの八浜の町並み保存にあたって地元と協議を重ね、保存に向って努力されているようだ。
町並み指数 60
参考文献 
  岡山町並み紀行  山陽新聞社  山陽新聞出版局  1999年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年

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